初のオンライン映画祭も刺激的な内容に PFFが若手作家の登竜門として果たしてきた役割

PFFが果たしてきた役割を振り返る

 ぴあフィルムフェスティバル(PFF)はこれまで数多くの才能を送り出してきた。撮影所システムが崩壊した後の日本映画界で新しい人材の育成を担い続けたその功績は大きく、80年代以降の日本映画を語る上で欠かすことのできない存在だ。

 そのPFFが、新たな企画「オンラインPFF」を立ち上げた。その第1弾企画は、「PFF・オンライン映画祭」と称し、滅多に観られない貴重な作品と監督・俳優とのトークショーを開催した。コロナ禍で失われた映画祭の熱狂をオンラインに移植しようという試みである。

 新型コロナウイルスの世界的流行で、世界中の映画祭がオンラインでの開催に踏み切る中、PFFもその流れに追随した格好だ。若手の登竜門らしく、これから映画界を志す若手を刺激する貴重な6日間となった。

PFFは日本のサンダンス

第42回は9月12日より開催

 PFFは、1977年に東映大泉撮影所で開催されたオールナイト上映会「第1回ぴあ展〈映像部門〉」をその発端としている。雑誌『ぴあ』で公募した自主映画を厳選してオールナイトで上映する試みで、翌年「OFF THEATER FILM FESTIVAL」と改名、1978年の開催では森田芳光、石井聰亙(現・石井岳龍)などが入選している。

 1981年に名称を現在の「ぴあフィルムフェスティバル」に改名、自主製作映画最大の映画祭として今日まで続いている。「新しい才能の発見と育成」をテーマに掲げ、映画祭の開催のみならず、受賞作の海外展開や劇場公開、巨匠の特集上映の企画など多岐にわたる活動を行っている。

 PFF出身の映画監督は実に多い。PFFがスタートした70年代後半は撮影所システムが崩壊し、撮影所から人材育成の機能が失われた時代だった。時を同じくして8ミリカメラを用いた自主映画ブームが起き、若い感性を持った作家に光を当てる役割を果たした。以来、撮影所に代わって新たな才能を発掘し続け、多くの若手にチャンスを与え続けてきた。

 歴代入選者は、前出の石井岳龍、園子温、黒沢清、橋口亮輔、塚本晋也、佐藤信介、熊切和嘉、荻上直子、深川栄洋、内田けんじ、石井裕也、中島哲也、諏訪敦彦、李相日、豊島圭介、タナダユキなど、錚々たる顔ぶれだ。

 若手の育成というのは基本的に採算が取りづらいものだ。同種の試みはこれまで数多くあったが、PFFほど長く続いているものは日本にはない。ほぼ同時期にアメリカではインデペンデント映画の映画祭「サンダンス映画祭」が始まっているが、PFFの歴史と歩みは、「日本のサンダンス」と呼ぶにふさわしいものだ。

 入選作品が劇場公開されるケースもある。熊切和嘉の『鬼畜大宴会』はミニシアターで公開され、連日満員となるヒットとなった。また、PFF入選をきっかけに他の映画祭に招待されるケースもある。PFFは才能を発見して終わりではなく、さらに広く紹介していくために様々な映画祭と連携、PFFライブラリーを創設し映画学校などに貸し出しを行うなどの活動も積極的に行っている。

 さらにPFFの優れた点は、発掘した才能を自ら育成する機能を備えている点だ。1984年に始まった「PFFスカラシップ」制度は、入選作家の中からオリジナル企画を募集し、選ばれた一本に製作費を与え、劇場公開を目指すというもの。PFFが企画から製作、映画祭への出品から劇場公開、パッケージ販売までプロデュースする。自主映画作家にプロの映画作りの現場を体験させ、商業映画作家としてデビューさせるプロジェクトだ。

 橋口亮輔の『二十才の微熱』、荻上直子の『バーバー吉野』、石井裕也の『川の底からこんにちは』など、その監督の代表作とも言える作品がスカラシップで製作されている。カンヌ国際映画祭批評家週間に出品され、4部門を受賞する快挙を成し遂げた内田けんじ監督の『運命じゃない人』のように、国際映画祭に注目を浴びる作品も生み出してきた。

 PFFは、始まりから40年以上経った今でも、才能の発掘と育成という初心を忘れず、若手作家に寄り添う姿勢を貫いている。もし、PFFがなければ、日本映画は今よりもずっと風通しが悪く、多彩さのない業界になっていたに違いない。日本映画の屋台骨を支える存在を言っても過言ではないだろう。

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