宮台真司の『寝ても覚めても』評:意味論的にも視覚論的にも決定的な難点がある

宮台真司の『寝ても覚めても』評

『めまい』に比べた視覚論的な鈍感ぶり

 以上を踏まえた上で視覚論を取り込みます。この映画では、「麦に見えて、実は亮平だ」が成立しているのに、「亮平に見えて、実は麦だ」が成立しない、という非対称性が映像的に提示されます。この極めてスリリングな非対称性を、鏡の比喩で理解できます。比喩を正しく理解するには、「見る」能動性と「見える」受動性の違いを弁えなければなりません。

 「鏡を見る=覗き込む」のは能動的ですが、「そこに自分みたいな像が見える」のは受動的です。これを合して言語学では「中動的」と言います。中動性の理解に最適なのは「妊娠」です。「妊娠するべく性交する」事態は能動的ですが、「運良く妊娠する」事態は受動的です。妊娠を巡る女の構えは中動的です。「見る/見える」と「性交する/妊娠する」はパラレルです。

 次に、鏡の中に「見える」のは「自分であって自分でない何か」です。その意味で「鏡の中」と「鏡のこちら」は非対称です。これを踏まえると、「亮平」を「見る」営みは、「鏡の中」を、「見る」営みに相当します。「鏡の中」を「見る」とそこに「自分であって自分でない何か」が「見える」ように、「亮平」を「見る」とそこに「麦であって麦でない何か」が「見える」わけです。

 鏡を取り去ります。「鏡のこちら」だけが残ります。僕らは(顔や背中は見えないものの)自分の身体を「見る(ことで見える)」ことができます。「自分であって自分でない何か」は消えます。麦を「見る(ことで見える)」営みは、「鏡のこちら」を「見る(ことで見える)」営みに相同します。「見える」のは「麦でしかあり得ない麦」であり、亮平はどこにも見当たりません。

 人間の視覚体験に敏感な者が、かかる非対称性が孕む可能性と不可能性に鈍感であることは許されません。ヒッチコック監督『めまい』(1958)はマデリン(鏡のこちら)とジュディ(鏡の中)の非対称性の劇的な逆転を描きます。これは可能性と不可能性のシンメトリカルな逆転です。だからストーリーよりも主人公スコティの視覚体験を想像して人は眩暈に陥ります。

 『めまい』の監督が備えているような視覚体験への敏感さが『寝ても覚めても』の監督にあるでしょうか。ジュディ(鏡の中)がマデリン(鏡のこちら)に「見える」と思ったら、ジュディ(鏡の中)こそがマデリン(鏡のこちら)だったという反転。僕らが突きつけられている(突きつけられないことができない)のは、「コレ(現実)はコレ(現実)なのか」という問いです。

 更に深く入ります(専門的な言葉遣いはできるだけ避けます)。「コレはコレである」という自同律は、通常はそのように構えないとうまく生きられない(とされている)という意味でのrealismです。しかしこれを逆から見れば、「コレはコレである」という自同律によって、僕らはreal(だと通念によって見做されているもの)を、温存することになるのです。

 そうした通常的な営みを、僕らは「世界はもっと豊かに生きられるのに…」という観点から、「反動的だ」と批判すること「も」できます。『めまい』のストーリーはその意味で「反動的だ」と言えますが、主人公の視覚体験(として映画を通じて与えられる与件)つまり主人公に与えられた(と想像される)視覚的世界はこの「反動性」を木っ端微塵に打ち砕いています。

 でも、たかが映画です。つまり社会システムが与える「ontologyからの間接化装置」です。だからこそ、こうも言えます。僕らは「常に既に」システムによって間接化されており、全ての情報体験を「仮想現実の如きもの」だと見做せます。間接化とは「それでも生きていける」ということです。であれば、映画が「反動性」に付き合う必要など毛頭ないと言えます。

 「映画の中」だけの話ではない。僕らが「反動性」の拒絶によって多少は「うまく生きられい」状態になるのだとしても、「常に既に」僕らが社会システムによって充分に間接化されている以上、その「うまく生きられなさ」もたかが知れていると言えます。「常に既に」間接化されたrealを生きている以上、現実に鏡像と実像を反転させて生きられる可能性さえある。

 アマゾンのジャングルで狩猟採集を営む先住民と違い、システムによって間接化されたrealを生きる朝子は、「コレ(亮平)はコレ(亮平)である」という自同律を敢えて拒絶し、先住民的な意味でのrealを生きない(間接化されまくったrealを敢えて生きる=realismを拒絶する)ことが選択できるはず。古い社会で不可能だった「鏡の中を生きる」esthetismです。

 それが「亮平=亮平、麦=麦」という自同律を生きない朝子だとしたらどうか。それは「亮平を、麦の別の現れ(鏡像)」として生き続ける朝子です。ただし幾度も繰り返すように「麦を、亮平の別の現れ(鏡像)」として生きることはできません。理由は、亮平が「内在系」で、麦が「超越系」だからです。そこに、亮平ではなく、麦を遠ざけるべき、真の理由が生まれます。

 人は「内在(亮平)に超越(麦)を見出す(見える)」ことはできても、「超越(麦)に内在(亮平)を見出す(見える)」のは不可能。「ここ(亮平)」に「ここではないどこか(麦)」を重ねる動機があり得ても、「ここではないどこか(麦)」に「ここ(亮平)」を重ねる営みには動機があり得ないからです。エクスタシス(外に立つ存在)としての人間(ハイデガー)。存在界の摂理(ontology)。

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