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宮台真司の月刊映画時評 第10回(前編)

宮台真司の『愛しのアイリーン』評:「愛」ではなく「愛のようなもの」こそが「本当の愛」であるという逆説に傷つく体験

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自然界の「駆り立て」の連鎖

 『愛しのアイリーン』を見て、僕は、幼少時に見たドキュメンタリー番組の衝撃を思い出しました。番組は食物連鎖を描いたものでした。ガゼルの母親が我が子を愛おしむ様子が描かれますが、直後にガゼルの子がライオンに食べられてしまいます。何と可愛相なのだろうと僕は思いました。

 でも、そう思った矢先に、ライオンがお腹を空かせた子ライオンの母親だったことが描かれるのです。まさにそれが食物連鎖というものだ、という話なのですが、子供心にはこれは衝撃でした。ガゼルの子が哀れだというのは一つの視座ですが、別の視座に立てばライオンの子こそ哀れなのです。

 自然全体すなわち存在界全体の摂理を見よ、と番組は教えていたわけです。全体から見れば、何かを可愛相だと思うのは「人間的な」つまり身勝手な感傷に過ぎません。ガゼルはライオンに駆り立てられますが、ライオンもお腹を空かせた子ライオンに駆り立てられます。そこには「駆り立て連鎖」があるだけなのです。

 大学に入った僕は、こうした認識が後期ハイデガーの真髄だと知りました。思想や哲学の界隈で1990年代に起こった「存在論的転回」や、それ以降の「多自然主義」や「多視座主義」も、敢えて用語説明をしなくてもお判りのように、後期ハイデガーが注目する「駆り立て連鎖」の延長上にあるものです。

 駆り立て(Gestell)は連鎖します。その外に出る自由(選択の余地)はガゼルにもライオンにもありません。人間にもありません。ことは食物連鎖に限られません。大衆は新聞や雑誌やウェブを読むよう駆り立てられますが、それらを供給する記者や編集者も記事を配信するよう駆り立てられます。存在界の摂理。「<世界>はそもそもそうなっている」。

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