>  > 『寝ても覚めても』が描いた運命と主体性

運命に翻弄される存在から“主体”の獲得へ 『寝ても覚めても』朝子の一歩を捉えたカメラの誠実さ

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 運命の恋というと聞こえがいいが、それが果たして当人にとって望ましいものなのかわからない。運命はときに暴力的である。わたしたちは恋と呼ばれるものがいかにひとを狂わせるか現実においても知っているし、それが避けられないもの、すなわち「運命」であったとしたら、それほど恐ろしいものが他にあるだろうか。それまで築いてきた日常がいとも簡単に飲みこまれていく。その暴力的な力を恐れ、あるいは焦がれ、たくさんの物語や映画が運命の恋を捉えようとしてきた。

 濱口竜介監督の商業映画デビュー作『寝ても覚めても』は、冒頭から大胆に、映画でしかできないやり方で運命の恋を現出させようとたくらむ。花火の爆発音をきっかけにしてカメラは切り返し、男と女の視線が合う。足元を映すショットが入り、ふたりは近づく――。恋の始まりを示すのならばこれだけで十分だ、という不敵さ。それはやがて友人たちに「そんなことあるかい」と突っこまれ、あるいはそんな始まり方の恋愛をする男など「あれはあかんわ」と窘められるのだが、当事者であり主体であるはずの朝子(唐田えりか)はフワフワと夢見心地だ。狂気の淵に落ちた――というと大げさだろうか? けれどもわたしたちは、恋がひとを簡単に狂わせることを知っているだろう。朝子が夢中になる麦(東出昌大)は一般的な感覚からすると非常識な男だが、この出会いを「運命」と言い切る不遜さによって朝子を夢見心地にさせる。そう、この出会いは運命。避けようがなかったのだ。であるならばむしろ、そのことに逆らわないほうがいいとばかりに朝子は先のない関係に身を委ねる。

 朝子に訪れた「運命の恋」はそして、麦の蒸発によってあっけなく終わりを迎える。これも朝子が選んだことではない。彼女は決定的に主体になることができない。しかしながら、そんな風にして訪れる出来事につねに受け身であろうとする彼女をさらに運命が襲うことになる――目の前に麦と同じ顔をした別の人間が現れるのである。これはメタファーではなく、映画のなかで一人二役という明瞭さで示される。「そんなことあるかい」と誰もが突っこむだろう。だがそれはもう起こってしまった。朝子はいったいどうするのだろう――というところから、映画は次の展開に向かっていく。

 『寝ても覚めても』はここで、運命についての考察という側面を露にする。「起こるはずのない」ことが起こったとき、ひとはどうするのか。何ができるのか。あるいは諦めるのか。それは中盤、原作にはない震災のエピソードが挿入されることでよりはっきりする。あの規模の大震災は、多くのひとにとって「起こるはずのない」ものだったからだ。

 朝子はそれまで麦と同じ顔をした男・亮平(東出昌大)を前にして逃げるばかりだったが、震災によって日常の光景がすっかり見慣れぬものとなってしまった東京の街ではじめて彼にしっかりと向き合い、そして、自らの意思で足を前に進めるのである。これは明らかに冒頭の麦が朝子に近づく足を映したショットと対比されており、ここでようやく朝子は自らにやって来た恋を主体的なものとする。その潔い一歩をまっすぐに捉えるカメラの誠実さこそが、『寝ても覚めても』の核にあるものだと言えるだろう。それまで訪れる出来事に対してつねに受け身であるように見えた朝子が、確実な一歩を踏み出した。わたしたちはそれを見届ける。積み上げてきた日常が一瞬で崩壊したときにこそ、その一歩はまた新しく生きる力を授けるだろう。

      

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