『ファントム・スレッド』はオートクチュールのような逸品に 巧みにデザインされた男と女の物語
ポール・トーマス・アンダーソンが男女の恋愛を描くのは『パンチドランク・ラブ』(02)以来だが、女性を主人公にしたのは初めてのこと。アンダーソン初のヒロインは、そうやうやすと男の言いなりにはならない。アルマがレイノルズに求めているものは当然のごとく愛情であり、レイノルズの恋人としてリスペクトされること。アルマは客としてやって来たベルギーの王女に「私はここに住んでいるのよ」と挑戦するように語りかける。一方、レイノルズがアルマに求めているのは彼女が優秀なマネキンであること。彼が興味があるのはアルマというひとりの女性ではなく、自分が作ったドレスを着ているアルマなのだ。映画のなかで唯一、レイノルズが欲望に満ちた眼差しでアルマを見つめるのは、ファッション・ショーでアルマが登場した瞬間。ドア穴から食い入るようにアルマを見つめるレイノルズの眼差しは、どこか狂気じみている。
仕事の殻にこもり、人を愛することができないレイノルズを振り向かせようと、アルマはレイノルズの心にどんどん攻め込んでいく。それを振り払おうとするレイノルズ。愛をめぐる激しい攻防戦がヒートアップするなか、アルマはとんでもない作戦でレイノルズを攻撃。弱ったレイノルズを献身的に看病し、レイノルズが愛してやまない母親の役割を担うことで、自分を頼るようにすることに成功する。最初は人でなしの天才に愛を踏みにじられた被害者だったアルマも、このあたりまでくるとレイノルズに負けないくらい狂気じみている。そして、アルマに依存するようになったことを恐れたレイノルズが再び反抗すると、アルマは最終手段を使ってレイノルズを完全に自分のものにしようとする。そんな2人のいびつな愛憎劇がピークに達するクライマックスの食事のシーンは圧巻で、ダニエル・デイ=ルイスとヴィッキー・クリープスの鬼気迫る演技に手に汗握る。そこでアルマは「あなたには無力でいてほしい」と呟くが、それはレイノルズがアルマにマネキンのままでいて欲しいと願っていたことと変わらない。2人にとって、愛とは一体何だったのか。
ダニエル・デイ=ルイスは本作が引退作になると公言しているが、自己中心的で繊細なレイノルズを見事な演技で格調高く演じている。その一方で、ヴィッキー・クリープスは、アルマのなかで女の情念が覚醒していく姿を生々しく演じて、女性のしたたかさを見せつける。本作は仕事に取り憑かれた男と愛に取り憑かれた女の闘いであり、さらには上流階級の世界に迷い込んだ下層階級の女性の階級闘争のような側面もある。また、結婚もせずにレイノルズの面倒を見ているシリル(レスリー・マンヴィルの正確で気品に満ちた演技も絶品)のことも忘れてはならない。強く悲しい絆で結ばれた姉と弟。病に倒れたレイノルズは母親の幻を見るが、家族というテーマも本作には織り込まれている。そうした様々なドラマを内包したエモーショナルな物語を、アンダーソンは洗練された色彩と豪華な衣装で官能的に描き出した。そこでは、イギリスのロック・バンド、レディオヘッドのメンバー、ジョニー・グリーンウッドが手掛けたサウンドトラックも重要な役割を果たしている。グリーンウッドは3作続けてアンダーソンの音楽を手掛けているが、今回はいつもの不協和音や不穏な旋律は控えめに、叙情的で色彩豊かなオーケストラ・サウンドで物語を幻想的なムードで包み込んでいる。
「ファッション・デザイナーと映画監督には多くの共通点がある」とアンダーソンはコメントしているが、『ファントム・スレッド』はハリウッドの鬼才が鮮やかに織り上げたオートクチュールのような逸品だ。グロテスクでエレガント。恐ろしくて甘美。観る者の感情に爪痕を残すべく巧みにデザインされた物語に、アンダーソンの唯一無二の才能が光っている。
■村尾泰郎
ロック/映画ライター。『ミュージック・マガジン』『CDジャーナル』『CULÉL』『OCEANS』などで音楽や映画について執筆中。『ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール』『はじまりのうた』『アメリカン・ハッスル』など映画パンフレットにも寄稿。監修を手掛けた書籍に『USオルタナティヴ・ロック 1978-1999』(シンコーミュージック)などがある。
■公開情報
『ファントム・スレッド』
全国公開中
監督・脚本:ポール・トーマス・アンダーソン
出演:ダニエル・デイ=ルイス、ヴィッキー・クリープス、レスリー・マンヴィル
音楽:ジョニー・グリーンウッド
ユニバーサル作品
配給:ビターズ・エンド/パルコ
2017年/アメリカ/130分/カラー/ビスタ
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公式サイト:http://www.phantomthread.jp/