渡邉大輔の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』評:『君の名は。』との関係と「リメイク映画」としての側面を考察

渡邉大輔の『打ち上げ花火~』評

 「悪い場所」としての『君の名は。』との距離感

 さて、劇場公開からすでに3週間あまりが経過していますが、目下評判は賛否両論といったところでしょうか。

 その大きな原因の一つは、やはり昨年社会現象的な大ヒットを記録したアニメ映画『君の名は。』(16年)との(ぼく自身も含めた)観客側の予断的な比較にあったことは間違いがないでしょう。それもそのはず、まず本作は『君の名は。』と同じ東宝の敏腕プロデューサー、川村元気による企画であり、『君の名は。』の大ヒット以降、急速に台頭してきた一連の「アニメ映画ブーム」の延長上に位置づけられ、なおかつ『君の名は。』同様、夏休み興行の「青春ラブコメSF」という枠組みで作られ、公開されているからです。また、映画の宣伝ポスターや予告編もどこか『君の名は。』を意識したようなデザインや構成に見えます。

 もとより、ここ数年の日本映画界は13年の宮崎駿監督の引退宣言と翌年のスタジオジブリ解散に始まるいわゆる「ポストジブリ探し」——つまり、ニッチな「アニメオタク向け」ではなく、高い作家性と幅広い大衆性を兼ね備えた「一般向け」の大作アニメの潮流の開拓に躍起になっているところがあります。むろん、今年の宮崎の引退撤回と新作長編製作開始で若干潮目が変わった部分はありますが、これはもはやエピソードに過ぎず、大局的な流れで本質は変わらないでしょう。そして、ここ数年は宮崎と同じ東映動画を出自とする細田守が誰の目にもその急先鋒とみなされてきました。が、周知のように、『君の名は。』の「ワンチャン的」な(「前前前世」ならぬ)大大大ヒットによって、「ポストジブリ」の系譜は奇しくも本来、彼らとはまったく文脈が異なる場所から出発し「国民的」クリエイターとなった新海に連なることになったわけです。

 いずれにせよ、ジブリ同様、実写の有名監督の名作を原作にするというアニメファン以外の観客にも広くアピールするフックを設け、あまつさえ後述するように、他ならぬ新海に大きな影響を与えた岩井作品のアニメ映画化という『打ち上げ花火』の企画は、さまざまな点でまさに「ポストジブリ的」な要素に満ちており、その意味で昨年の『君の名は。』のような娯楽大作を期待して足を運んだ観客も多かったに相違ありません。

 実際、『君の名は。』もまた、細田守的な「同ポ」ショットの反復(閉まるドアや扉の超ローポジション)など、過去の著名なアニメ作家の指標的な演出を意識した画面が目についた作品でしたが、それを意識してかどうか、今回の『打ち上げ花火』もまた、それに近いショットや演出がいくつか見られました。例えば、主人公の島田典道(菅田将暉)とヒロインの及川なずな(広瀬すず)が茂下駅から電車に乗って駆け落ちする岩井版にはない映画後半のシークエンスは、むろん直接的な着想源は、本作をめぐるドキュメンタリー『少年たちは花火を横から見たかった』(99年)でも語られたように、もともと原作の発想元にあった宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』に由来しているものの、海の上を走る単線電車のイメージは、紛れもなく宮崎駿の『千と千尋の神隠し』(01年)のクライマックスを思わせますし、また作中でヒロインのなずなが佇む大きな風車の回る花畑で、足元に咲く花が風に揺れる描写は細田守の『おおかみこどもの雨と雪』(12年)の冒頭シーンを髣髴とさせます。さらに、本作では主人公たちが通う中学校の担任教師・三浦先生役として花澤香菜が登板していますが、これもまたいうまでもなく『君の名は。』(とその前作『言の葉の庭』〔13年〕)のヒロイン・宮水三葉(上白石萌音)の高校の国語教師「ユキちゃん先生」への目配せを感じさせる配役となっています。

 以上のような『君の名は。』の細部との類似点からも、今回のリメイクが製作側において「ジブリから『君の名は。』へ」の系譜をまったく意識しなかったわけではなさそうです。とはいえ、そうした期待で観た一般観客たちとっては、今回の『打ち上げ花火』の後半の冗長な繰り返しの展開(テーマ的にはこれは避けられないのですが)や、物語的カタルシスには相対的に弱いラストなどは、確かにいささか拍子抜けするところがあったのでしょう。

 むしろ、アニメファンや評論家にとっては、今回のリメイクは、いわゆるジブリ系の一般向けアニメや実写映画の観客であれば馴染みが薄いようなきわめて「アニメ的」な映像表現や演出にこそ注目すべき要素が多々あったようです。知られるように、本作の制作スタジオである「シャフト」と総監督の新房は、とりわけ2010年代以降、『化物語』(09年)、『魔法少女まどか☆マギカ』(11年)など、深夜アニメ発の話題作、傑作を数多く手掛けています。精細な分析はぼくより詳しい専門家のかたに任せたいのですが、確かに本作でも“物語”シリーズの渡辺明夫がキャラクターデザインを手掛けている他、作中には俗にファンの間で「シャフ度」と呼ばれるキャラクターが誇張気味に顎を上げ、首を後ろに反りながら振り返る動作(冒頭のなずなが典道を振り返って見つめるスローショットなど)や、シャフト作品に特有なエッジの効いたカッティングや奇抜なアングルなどが随所に登場します。また、石岡良治が『キネマ旬報』8月下旬号のレビュー(「増殖する「もしも」のただ中へ」)で指摘するように、なずなの「旧スクール水着」や「白いワンピース」といったかつてのオタク系コンテンツの符牒的なイメージの頻出もこうした文脈に回収可能なものでしょう。このように本作はむしろ先に述べてきたジブリ系アニメの系譜とは対照的な、ニッチなオタク系アニメファンの感性に馴染み深い演出によっても組み立てられており、実際、むしろそうした観点からこそ肯定的に評価する向きも多いように見えます。

 ここまでをまとめていえば、今回の『打ち上げ花火』を語る時に、先行する新海の『君の名は。』はむしろ美術評論家の椹木野衣のいう意味での「悪い場所」——歴史的かつ構築的なパースペクティヴを見失わせ、あらゆる文脈をグズグズにしてしまう回路として機能してしまっているような気さえします。しかし、ぼくの考えでは、「岩井俊二」と「新海誠」という名前の取り合わせはやはり現代の日本映画を考える時にきわめて重要な結びつきを担っており、やはり本作を語る上でも欠かせない要素だと思っています(この問題の詳細については、最近刊行された大澤聡編『1990年代論』〔河出書房新社〕所収の拙論で簡単に論じました)。したがって、ここではあえて『君の名は。』も意識しながら、本作の「リメイク映画」としての側面に注目し、そのいくつかの魅力をざっと述べていきたいと思います。

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