渡邉大輔の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』評:『君の名は。』との関係と「リメイク映画」としての側面を考察

渡邉大輔の『打ち上げ花火~』評

 岩井版からの継承と新海アニメとの交錯


 そこで、改めて『君の名は。』の話題から始めましょう。

 例えば、ぼくは昨年の『君の名は。』の公開直後に記したリアルサウンド映画部のレビュー(『君の名は。』の大ヒットはなぜ“事件”なのか?)で、このアニメ映画の持つ「(美少女)ゲーム的」な構造とその岩井作品との共通性を指摘していました。その要旨部分をちょっと引用してみましょう。

 『君の名は。』の物語構造や映像表現は、それ自体きわめて「(美少女)ゲーム的」だといえます。[…]

 そして、いうまでもなくこの演出は物語のキーポイントである三葉と瀧の身体の入れ替わりにかかわるいわゆる「記憶喪失」のモチーフとも密接につながっています。[…]

 さきほども述べたように、美少女ゲームや乙女ゲームを含めたノベルゲームの構造とは、視点プレイヤーの主観ショットから見た画像がディスプレイに表示され、プレイヤーは、背景画のうえにイラストで登場する複数の異性キャラクターとのそれぞれ恋愛ルートを分岐ごとの選択肢を選びながら楽しみ、恋愛が成就(「攻略」)すれば「トゥルーエンド」、失敗すれば「バッドエンド」という結末にたどりつく。その過程でプレイヤーのリニアな物語は何度も「リセット」され、事実上どこまでもループしてゆくというゲーム特有のノンリニアな構造をもっています。[…]

 いずれにせよ、もうおわかりのとおり、『君の名は。』の物語とは、いわばプレイヤーが感情移入すべき作中キャラクターから見た「可能世界」(世界線)が一回ごとに「リセット」されて幾度もループし続ける、ノベルゲーム的な構造を如実にそなえているといえます。さらにこの見立ては、物語の後半と結末で、瀧が糸守町に軌道を外れたティアマト彗星が落下して町民もろとも死んでしまう運命にあった三葉を、時空を超えて救いだすという展開にそのままつながってゆくでしょう。いわば『君の名は。』とは、ゲームプレイヤーが、ヒロインが死んでしまうという「バッドエンド」の可能世界(ゲームルート)から何度もリプレイを繰りかえして、ふたりが生きて再会する「トゥルーエンド」にいたるまでのゲーム空間だとみなせるのです。

 以上のように、かつてぼくは『君の名は。』の物語を、およそゼロ年代あたりからサブカルチャーコンテンツの中で流行したいわゆる「ループもの」や、批評家・東浩紀のいう「ゲーム的リアリズム」という形式に非常に近い印象を与える作品だと解釈しました。そして翻っていえば、これも引用した文章でも指摘したように、90年代前半に作られた岩井の『打ち上げ花火』(より正確にはこのドラマを含む『if もしも』というシリーズ)とは、実はこうした意味で「ゲーム的」(ノンリニア的)な想像力や構成を意識して作られた先駆的な作品だったということが言えます。

 改めて説明するまでもないでしょうが、本作は「(A)典道がプールの競争で勝ってなずなと一緒に駆け落ちするか、(B)それともしないか」という二つの分岐ルートが描かれた作品であり、その複岐的な構造は、タイトルの「下から見るか? 横から見るか?」にも反映されているものです。また、岩井自身がこうした作品の「ゲーム性」を強く自覚していたことは、作中で典道と祐介がスーパーファミコン(『スーパーマリオワールド』『ストリートファイターII』)をプレイする場面が登場することからも窺い知れるでしょう。あるいは、岩井はこうしたゲーム的な物語をこの後の『花とアリス』(04年)でも再び描くことになります(この点についても拙著『イメージの進行形』〔人文書院〕で論じました)。ともあれ、だからこそこうした『君の名は。』のゲーム/ループ的な物語構造を、やはり本作のエンドクレジットでスペシャルサンクスに名前が掲げられ、新海自身がかねてからその作品からの大きな影響を公言している『打ち上げ花火』を含む岩井の作品群に由来を求めることはさほど不自然ではないでしょう。

 さて、以上の文脈を踏まえながら、今回のリメイク版の演出をもっと具体的に見てみることにしたいと思います。

 まず第一に、今回のアニメにおける原作ドラマからの改変は、主人公たちが小学生から中学生へ、舞台が現実の飯岡町から架空の「茂下町」へと変更されたことなど、大きな要素がいくつか見られますが、その重要な要素の一つにループ=可能世界のより一掃の多層化が挙げられます。

 原作に比較して約40分近く物語が長尺になったこととも関係しますが、岩井版では1度だけだった「時間の逆行」=リセットと分岐ルートが、本作では3度に増えています。映画ではこの物語的な改変を象徴するかのように、全編にわたってループ=循環のイメージを喚起する物体がそこかしこに頻出します。例えば、中学校の校舎や茂下灯台の螺旋階段、海岸沿いに並ぶ巨大な風車、なずなの部屋に吊るされたミラーボールのような形の照明家具とイサム・ノグチの「AKARI」、あるいは校庭の芝生に設置された水撒きなどなど、新房たちは「循環」や「回転」を思わせるガジェットを多数散りばめることによって、本作固有のテーマそのものを巧みに形象化しているのです。また、同じことは物語前半の印象的なプールのシーンでもいえるでしょう。ここは作中で典道となずなが初めて言葉を交わす重要なシーンですが、そのきっかけとなる、原作ではなずなの首筋についたアリが、今回はトンボに変更されています。そして、典道がなずなからトンボを追い払った後、映画は空高く上昇していったトンボのPOVショット(見た目ショット)をインサートします。このPOVの画面では上空を見つめる典道となずなの姿を、トンボの複眼を模していくつも分割されたフレームで見せていますが、これもいわば物語後半のループ=「もしも」の増殖をはるかに暗示する演出といえるでしょう。

 また第二に、本作ではかつての原作の岩井美学に特徴的な映像表現(作画)も種々取り入れられています。例えば、キャラクターたちのPOVショットによる繋ぎ、淡いソフト・フォーカス、青空の陽光のレンズフレアなどです。あるいは、なずなが自宅の前で母親(松たか子)に強引に腕を引っ張られて連れ戻されるシーン。原作では岩井特有のジャンプ・カットで描かれていたところを、シャフト作品ならではのシャープなカッティングとも相俟ってかなり忠実に再現していました。

 さらに岩井的な映像の継承という面では、付け足された物語の後半に登場するなずなの歌唱シーンにも注目しておくべきでしょう。2度目の「リセット」を経て茂下駅のプラットフォームから典道とともに電車に乗ったなずなは、車内で母が好きだったという松田聖子の「瑠璃色の地球」(1986年)を口ずさみます。すると、暗くなった車窓の外にドレス姿の自分が映り、そのままなずなと典道は電車を飛び出し、馬車に乗って非現実的な空間に辿り着くと二人で歌いながら踊ります。この通常の物語から逸脱して楽曲の歌唱とともに踊るシーンは、いわばここだけどこか「ミュージック・ビデオ」の演出を思わせます。この演出もまた、映画監督やドラマ演出家のさらに以前、もともとミュージック・ビデオの演出から映像の世界に入ったという岩井のキャリアに対する新房や大根の目配せのようにも感じられるシーンなのです。

 しかし、ここで急いでつけ加えなければならないのは、やはり以上の本作の一連のシーンは、単に原作の岩井の作品だけでなく、それが影響を与えてもいる新海のアニメを間に挟んで観られなければならないということです。というのも、これもいまや有名ですが、本来アニメ作画には不要なはずのレンズフレアの描きこみなど、いわゆる「アニメにおける擬似実写的演出」は、岩井美学も意識しつつ、他ならぬ新海が自作で積極的に試みてきた特徴的な手法でもあったからです。この「アニメの擬似実写的演出」は、新海の他にも、山田尚子監督の『映画 聲の形』(16年)をはじめ、昨年のアニメ映画ブームの中で一挙にメジャーに認知された感がありました。今回の『打ち上げ花火』でもまた、なずなたちのプールの飛び込みシーンやなずなの部屋、典道の家のトイレなど、いたるところで広角レンズ風のショットが登場するところにも、本作がこうした傾向を踏襲しようとしていることが窺われます。

 したがって、アニメ版『打ち上げ花火』の数々の演出は、岩井の実写版原作へのレスポンスであるとともに、それは同時に、やはり「岩井チルドレン」である『君の名は。』の新海のアニメとの関係においても見られなければならないのです。

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