『打ち上げ花火~』岩井俊二×大根仁×シャフトの組み合わせは本当に噛み合っていないのか?

『打ち上げ花火~』の座組は噛み合っていないのか

異色の組み合わせは噛み合っていたのか

 『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』がなにやら随分と評判が悪い。わかりやすい魅力のある作品では決してないだろうが、ここまで反発があるとは予想していなかった。世相に反して筆者は今作が大好きで、すでに3回観た。あと何回観に行くだろうか。観返す度に発見がある。鑑賞を重ねる毎に感動も増している。

 不評の原因はなんだろうかと、いろいろ聞いたり検索してみたりしているのだが、原作のTVドラマを知っている者は、オリジナルとの乖離部分に困惑し、大根監督ファンからは、らしくなさを指摘され、シャフトのファンも、『魔法少女まどか☆マギカ』の二番煎じではないか、そもそも意味がよくわからないなどなど、微妙な評価を受けている。

 要するにこの座組みが噛み合っていないと感じられているようだ。岩井俊二の清冽な描写と、大根監督のイヤらしい視線、スタイリッシュなシャフトの描写が、それぞれが拒絶反応を起こしてしまっているような、そんな印象だろうか。

 なぜこのような印象を持たれているのか、そして筆者の心の中では、なぜ拒絶反応を起こさずにむしろ全てが調和しているのか、ちょっと考えてみることにする。

 作品の理解は、文脈に依存する。例えば『シン・ゴジラ』が海外ではそれほど高い評価を得られず、日本国内では絶大な絶賛を受けたのは、「3.11後の日本」という文脈を肌で知っているかどうかに大きく依存している。文脈依存度の高低は作品ごとに異なるが、ほとんどどんな作品も全くなんの文脈に依存しないということはあり得ない。(あるかもしれないが、文脈を知っていた方が鑑賞時の楽しみは深まる)

 今作の異色の座組みが上手く噛み合っていないと感じられるのは、何か理解の鍵となる文脈が欠けていて、筆者はたまたま気づいたということかもしれない。では筆者は何に気づいたのか、開陳してみることにする。映画についての語りに唯一の解は存在しないが、鑑賞の一例になれば幸いだ。

『if もしも』への岩井俊二の違和感

 オリジナルの『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』は、『if もしも』という90年代のTVドラマシリーズのエピソードとして生まれた。『世にも奇妙な物語』の後番組として始まり、スタッフもほぼ同じだったこのシリーズは、ドラマに一箇所、選択の分岐点を作り、顛末Aと顛末Bを両方見せるという、ユニークなコンセプトの作品だった。主人公がある時点で選択を迫られ、Aのルートの場合の顛末を見せた後、選択肢に戻りBの物語を見せる。エピソードによってハッピーエンドとバッドエンドに別れる場合もあれば、どちらをとってもバッドエンドの場合もあったり、逆にどちらもハッピーエンドという場合もあった。(両方ハッピーエンドのエピソードでは、案内役のタモリがふてくされるように後ろを向いてしまうカットが妙に印象的でよく憶えている)

 人生はあらゆる瞬間に選択を求められ、それはやり直すことのできない不可逆なものだが、「もしも」別の選択した時、自分はどうなっていたのか、視聴者はそんな別の可能性に思いをはせて人生の奥深さを味わうような、そんなドラマシリーズだった。

 本作のオリジナルとなる岩井俊二監督の作品は、このドラマシリーズから生まれたものだが、元々は同氏が学生時代に思いついた企画をドラマのコンセプトに沿うように手直ししたものだ。(小説『少年たちは花火を横から見たかった』後書き参照)

 このコンセプトに合わせるために、多くの手を加えたようで、実際に岩井俊二がやりたかったことは別にあったようだ。そもそも同氏はこのコンセプトに違和感があったらしい。

この仕事を引き受けた時、このテーマにいささか違和感があったことを憶えてる。僕らは物語を作る時、常にこの起こりうる可能性を模索し、無数の選択肢の中からたった一つの道を選んで紡いでゆくのである。いうなればこの番組企画は、書き手にとっては物語を完成させる前に筆を置くに等しい行為なのである。物語を完成させない。最後のしかも重要な分岐点における主人公の選択とその顛末を両方とも描き、両方とも残したままにするのである。

 『if もしも』のシリーズは、分岐が発生するのは基本的に主人公の選択によってであるが、岩井氏が手がけた『打ち上げ花火~』で分岐が発生するのは、主人公ではなくヒロインのなずなの選択だった。しかも偶然のアクシデント(典道の足の怪我)によって選択が分岐する。構成が群像劇的になっているのもユニークな点だ。

 元々の企画のタイトル、そして小説版のタイトルは『少年たちは花火を横から見たかった』である。岩井氏は「if」が発生しなくてもこの物語を描けるのではないかとして,小説版では一つの物語に再構成している。

 今回はドラマシリーズの1エピソードではなく、単独の映画として公開される。オリジナル作品も完成度の高さと評判によって単独作品として劇場公開された実績があるが、ドラマ版を知らない観客には、どうして時間が戻るのかわからないという声もあったそうだ。オリジナルが放送されたのが1994年、すでに20年以上前のことなので、物語が巻き戻ることに何らかの理由付けが必要とされ、岩井氏の違和感を解消するなら、一本の物語として再構成する必要がある。

 そこで脚本担当の大根仁氏が導入したのが、時間を巻き戻す「不思議な玉」だった。その玉で主人公の典道が何度も時間をやり直すという「1本の物語」として再構成したのが今回のアニメ版だ。オリジナル作品の持つ、別の選択肢を見せるというコンセプトからも外れず、岩井氏の違和感も払拭する上手い落とし所だ。

 岩井氏の書いた小説版の最後の方に、なずなのこんなセリフがある。

「願い事言ったら、叶うかなと思ったけど,もったいないから使わなかったよ」

 小説版では、なずなが海岸で不思議な真珠の玉を拾っている。これが今回のアニメ版では重要な意味を持つ小道具となった。岩井氏の小説ではその玉を使わなかった世界線、今回のアニメ映画版では、使われた世界線という風に解釈可能かもしれない。

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