『怪盗グルー』“スラップスティック”でアニメ界に新風 幅広い世代を虜にする魅力を考察
近年アメリカでは、ディズニー映画『ズートピア』や、ピクサー映画『ファインディング・ドリー』、『カーズ/クロスロード』のように、実写映画並み、あるいはそれ以上に社会問題や人生の味わいを深く描く作品が、子ども向け劇場用アニメーション大作の主流になりつつある。
そのなかにあって、ほとんど高尚なテーマには関わらず、ほぼスラップスティック(ドタバタコメディ)に徹しているのが、2010年よりユニバーサル・スタジオのCGアニメーション作品を手がける、イルミネーション・エンターテインメントによる 『怪盗グルー』シリーズである。
イルミネーションの看板ともいえる、このシリーズも、本作『怪盗グルーのミニオン大脱走』で、7年間のうちにすでに長編3作目を迎え、さらにスピンオフの『ミニオンズ』や、いくつもの短編なども勘定に入れれば、驚くほど急ピッチで作品が次々に作られている。なぜ、ディズニー/ピクサー作品と比較すれば新興勢力といえるスタジオのシリーズが、ここまで安定した人気を手に入れたのか。ここでは、その秘密がよく分かる本作『怪盗グルーのミニオン大脱走』を検証しながら、人気の核となるものを解説していきたい。
世界中のあらゆるものを盗み出そうとする、見るからに性格が悪く異様な姿をした悪党、怪盗グルー。彼は、便利な道具を発明するマッド・サイエンティストや、黄色く小さな生き物ミニオンの大群とともに、大スケールの伝説的悪党になろうとしていた。だが、3人の愛らしい孤児を引き取ることになったグルーは、家族のあたたかさと、親として生きる充実感に目覚め、正しい道を歩む決心をする。
『怪盗グルー』シリーズは、このように第1作の時点で、主人公グルーの葛藤や内面の問題は大部分乗り越えている。2作目以降は、そのファミリー至上主義の要素と荒唐無稽なドタバタを、繰り返し強調していく内容にシフトし、同じテーマを描き直すという選択をしている。そこにはあたかも、『007』のような長寿シリーズや、『ワイルド・スピード』の近作にも似た、ひとつの型を繰り返していくシリーズの習慣的余裕がすでに漂っている。これは、常にシリーズ作品において新しいテーマを模索しようとするピクサー作品などとは異なる方向性である。
作り手をその選択に至らしめたのは、そこに登場する魅力的なキャラクター、とりわけミニオンが絶大な人気を獲得したという事情がある。当初は予算上の問題から、CGで楽にコピーできるように、似通ったデザインの謎生物をデザインしたということだが、その苦肉の策は、結果として主人公をはるかに凌駕するスターを誕生させ、シリーズ化への大きな原動力となったのだ。
日本においても、例えばテーマパーク、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)では、 新しくミニオンがテーマの世界最大のエリアがオープンし、ミニオンのアトラクションやショーが楽しめるようになった。インターネットのSNSを覗くと、『怪盗グルー』の話題は、ミニオンのキャラクターグッズがどこで手に入るのかという情報のやりとりが目立つ。だから、『怪盗グルーのミニオン大脱走』という邦題にとって、重要な部分は、「グルー」ではなく、あくまで脇役であるはずの「ミニオン」なのである。とにかくミニオンが見たいという観客の欲望に安定的に答えるべく、シリーズは類型化せざるを得なかったともいえよう。
同時に、イルミネーション・エンターテインメントとしては、例外的に『SING/シング』という、実写の映画監督ガース・ジェニングスを招聘し、ディズニー/ピクサーに匹敵する、人生のきらめきやショービジネスについて深く描写した作品も作られている。じつは、やろうとすればそのようなものもスタジオは作ることができるというポテンシャルを見せたという意味で、『怪盗グルー』シリーズで、あえてスラップスティックにこだわるという姿勢に説得力が生まれている。
ただその結果、シリーズには新しく、子どもを連れてきた大人の観客をどう楽しませるかという部分も大きな課題になってきていると思われる。3作目となる本作では、そこにバルタザール・ブラットという、奇妙なキャラクターを投入している。バルタザールは80年代、一世を風靡した子役だったが、いまでは全く見向きされなくなったことから、当時の音楽やファッション、レトロなデザインのテクノロジーを駆使しながら、ハリウッドを破壊しようと復讐を誓う異常な悪党である。『ミニオンズ』では、子どものおじいちゃん、おばあちゃん世代を喜ばせるような60年代文化をフィーチャしていたが、今回は80年代当時のカルチャーに洗礼を受けた親の世代の感性を狙い撃ちしている。子どもは「何のことやら…」と思うかもしれないが、「これはね…」と説明することで親子のコミュニケーションを促すことにも繋がるだろう。バルタザールは、作品に欠けた部分を埋めるように創造された、コンセプチュアルかつ哀れなクリーチャーなのである。