宮台真司の月刊映画時評 第5回(前編)
宮台真司の『FAKE』評:「社会も愛もそもそも不可能であること」に照準する映画が目立つ
可能性の説話論/不可能性の説話論
この1年ほど、映画批評の連載でテーマにしてきたことがあります。岩井俊二監督最新作『リップヴァンウィンクルの花嫁』(3月公開)のパンフレットにも詳述しましたが、近年の映画において、「社会はクソである」というモチーフが前面に出てきています。
「政治が悪いからクソだ」とか「社会的に恵まれない人がこんなにいるからクソだ」ということではなく、「そもそも社会はすべてクソなのだ」と。国籍も年代も問わず、映画監督がそのモチーフをどう表現するのか、ということがポイントになっています。
別の言い方をしましょう。映画や小説などの表現には二つの対照的なフレームがあります。第一は、本来は社会も愛も完全であり得るのに、何かが邪魔をしているので不完全になっているとするフレーム。不全をもたらす障害や悪の除去が説話論的な焦点になります。
第二は、本来は社会も愛も不可能なのに、何かが働いて、社会や愛が可能だと勘違いさせられているとするフレーム。そこでは、ベタに可能性を信じて悲劇に見舞われる存在と、不可能性を知りつつあたかも可能性を疑わないかの如く<なりすます>存在が登場します。
今世紀に入る少し前、グローバル化の進展による中間層没落とソーシャルキャピタル空洞化が明白になった頃から、映画や小説において、前者──可能性と障害の説話論──から、後者──不可能性と<なりすまし>の説話論──への、意味論のシフトが生じました。
エジプト的な思考/ギリシャ的な思考
後者を僕は<ギリシャ的なものの回帰>と呼びます。連載でも触れました。<社会>には裏切りなど数多の理不尽あり、<世界>には罪なき者の惨殺や災害死など不条理が満ちています。それはいったいなぜなのか。どうすれば良いのか。二つの考え方かあります。
一つはソクラテス(を記録したプラトン)が言う<エジプト的>な思考。理不尽や不条理に出会うのは、ヒトが生贄を値切ったり戒律(命令)を破ったりして、神が怒ったから、あるいは、神が罰を与えようと思ったから、ヒトを悲劇が襲うのだ、とするものです。
これを意識的に退けるのが、もう一つの<ギリシャ的>な思考。理不尽や不条理を神の意志に帰属させて神に拝跪するのは<依存>的な在り方であり、生贄増量や戒律遵守を神に持ちかけるのは神を操縦したがるエゴセントリックな瀆神行為だ、とするものです。
そうではなく、<世界>はそもそもデタラメである。これは僕が書いた映画論のタイトルでもあるけれど、理不尽や不条理を特異点──サイファ(暗号)──に帰属させることなく、逆説と不可能性に満ちた<世界>にそのまま心身を開いて突き進むことが奨励されます。
例えば紀元前5世紀のソフォクレスは最大のギリシャ悲劇作家として知られますが、神託に予言された悲劇──「オイディプス王」で言えば母との姦淫──を回避しようと渾身の努力を重ねることで却って悲劇が呼び寄せられるという<世界>のデタラメを描きます。
歴史を言えば、紀元前12世紀からの「暗黒の四百年」──カスピ海周辺から最初に移動してきたアカイヤ人と後続したドーリア人との血みどろの闘争──を「忘れない」ために、(1)ギリシャ神話、(2)ギリシャ叙事詩、(3)ギリシャ悲劇が、この順で書き留められました。
「忘れない」とは何を忘れないのか。<世界>はそもそもデタラメで、<社会>の秩序は一瞬の夢の如き奇蹟なのだ、という感覚を忘れないこと。これを忘れた者は、理不尽や不条理、何よりも死を恐れるがゆえに、戦争で使えず、ポリスを滅ぼすだろうという訳です。
逆に、理不尽や不条理を特異点(神)に帰属させる気休めを退け、ひたすら驀進する身体こそが、「英雄的」だと奨励されました。「損得勘定」に勤しむ保身が神への<依存>をもたらすとされ、損得勘定を超えて「内から湧く力」に従う在り方が「立派さ」だとされたのです。
<贈与>的な主意主義/<交換>的な主知主義
<エジプト的>思考と<ギリシャ的>の対比はキリスト教神学にも持ち込まれています。例えばイエスは、神を動かそうと戒律遵守を持ち出す思考を、生贄で神を釣るのと同じような<神強制>(ウェーバー用語)だと考えました。今日ではギリシャの影響だとされます。
19世紀に活躍したプロテスタント神学者シュライエルマッハは、<エジプト的>思考を「主知主義」intectualism、<ギリシャ的>思考を「主意主義」voluntarismと呼びます。彼がこれを持ち出すのは弁神論theodecyの文脈です。神の存在を弁護する思考を言います。
神が全能であるなら、なぜ<世界>に悪があるのか。悪には理不尽や不条理も含められます。悪があるのは、神の不完全、つまり全能の神の不在をこそ、意味するのではないか。こうした疑惑から全能の神の存在を完璧に擁護することこそが、弁神論の目的になります。
主知主義者はこう擁護します。ヒトは相対者。神は絶対者。相対者には絶対者の計画は伺い知れない。ヒトからは悪に見えても、全ては神の計画の内。まさにヘーゲル初期作品『精神現象学』の図式。世界の最終地点から振り返れば、全ての悲劇に意味が与えられる。
こうした主流の議論に主意主義者は抗います。悪が神の計画という合理性の内にあると想定するのは瀆神行為。神は全能なのだから、合理的なことも非合理なことも端的に意志できる。神は端的に何でも意志できるのだから、世界に悪やデタラメが満ちて当たり前⋯。
ならば神を信じることにどんな意味があるか。カトリックの大改革である第2バチカン公会議の精神を継承せんとした前教皇ベネディクト16世は、「神よ。私が皆を裏切らないようにどうか見ていて下さい。但し、私はあなたのものです」が祈りの本質だとしました。
前段は、古くからある「見る神」の表象──亡き父が見ている──で、見られることで内から力が湧く(!)事実に関連します。後段は、皆の為に頑張るのは永遠の命を得るための取引(<交換>)じゃないから自分はどうなっても構わないという<贈与>に関連します。
悪を断っても社会も愛も回復しない
ローマの教父哲学(アウグスティヌスなど)は「主意主義」、中世のスコラ哲学(アキナスなど)は「主知主義」として知られますが、20世紀後半の哲学に生じた「主意主義化」(<ギリシャ的>に戻ろうとする現代哲学化)にシンクロする事態がキリスト教にも生じたのです。
話を戻すと、<世界>はそもそもデタラメで、秩序ある社会や愛ある関係は一瞬の夢の如き奇蹟だ、とする<ギリシャ的>説話論と、本来は秩序ある社会や愛の関係が続くはずなのに、愚かな失敗ゆえに悲劇がもたらされる、とする<エジプト的>な説話論があります。
ことほどさように、<ギリシャ的>説話論を<不可能性の思考>、<エジプト的>説話論を<可能性の思考>とパラフレーズできます。別のパラフレーズをすれば、前者は<贈与>的=<自立>的=立派で、後者は<交換>的=<依存>的=ヘタレということになります。
繰り返すと、昨今の名作は<贈与>の過剰をモチーフとする<不可能性の思考>に従うものです。他方<交換>のバランスを持ち出すことで<可能性の思考>に従う作品はクズばかり。社会や愛がうまく行かないのは、単なるアンバランスのせいではないからです。
こうも言えます。アンバランスをもたらす悪の根源を絶てば社会や愛が回復すると考える勧善懲悪モチーフ──それに従う表現が「プロパガンダ」──を前景化する表現はクズだ、なぜなら、人々は既に、社会や愛がそもそも不可能である事実をよく知っているからだと。
今回、社会の不可能性と、愛の不可能性に分けて、前者の例として森達也監督『FAKE』、マシュー・ハイネマン監督『カルテル・ランド』を、後者の例としてアンドリュー・ヘイ監督『さざなみ』、ギャスパー・ノエ監督『LOVE【3D】』を取り上げましょう。