ポン・ジュノによるマルチバース的全能感の批判的検証 『ミッキー17』で“取り戻す”第一歩

『ミッキー17』ポン・ジュノの狙いを読む

 『パラサイト 半地下の家族』(2019年)に『グエムル 漢江の怪物』(2006年)を接ぎ木したポン・ジュノの現在形、それが彼の新作『ミッキー17』だ。

 前作『パラサイト』は、カンヌ国際映画祭で最高賞にあたるパルムドール、米アカデミー賞では作品賞、監督賞など最多4部門を受賞し、非英語作品で史上初の作品賞受賞作となった。日本でも期待どおり47億円超の大ヒットとなり、これは2020年洋画の最高興収記録となった。映画業界において考えられうる最大の栄誉に浴したと言っていい。それから早くも6年もの歳月が流れたいま、ポン・ジュノはSFブラックコメディでようやく映画大陸に帰還した。

 西暦2050年。幼なじみと一緒に開業したマカロン屋があえなく失敗に終わり、借金が凶悪なマフィアに質流れした主人公・ミッキー(ロバート・パティンソン)は、姿をくらますため、環境汚染の進んだ地球を離れて、植民地星への移民船に潜りこむ。ろくに契約書も読まずに決めた新しい職は、地球外で危険な任務をこなし、なんども死んでは、なんども生き返るという仕事。永遠の生命といわれれば聞こえはよいが、ようするに使い捨て人材である。ハードディスクに収められた遺伝情報、記憶情報、アミノ酸情報を元に、死んではその日のうちに蘇生させられるミッキーは、円筒状の3Dプリンタの中で転生し、私たちが自宅でよく知っている安物のプリンタと同じようにガタンガタンと小刻みに揺れながら、少しずつ現れる。全身が完成したあかつきには、プリンタ用紙のようにペロリと床にしなだれ落ちる。これほど憐れで情けない主人公は映画史上に存在しないだろう。

 そういう意味でこれは日本のアニメ界で異常発達したジャンルである「転生もの」の卑近なパロディでもある。日本の「転生もの」は、物語の始まりで主人公が非業の死をとげ、その死を惜しんだどこぞの神様のおかげか、別世界でヒーロー的存在として転生する、というイントロダクションを経ることが多い。ところが本作のミッキーはいくらでも置換可能などうでもいい存在として扱われる。『パラサイト』における半地下に棲息する最下層民たちと同類の扱いである。20世紀の人々なら「シミュラークル」とでも表現して済ませただろう状況が、『ミッキー17』全体を覆い尽くしている。ただし、この映画における「シミュラークル」が徹底的に抑圧対象とされ、スポイルされている点で現代映画たりえているのである。

 宇宙船の科学実験室においてスイッチひとつで簡単に蘇生できてしまうミッキーver.1,2,3,4…16,17という憐れな人間像は、ブラックコメディとしてももはや笑うに笑えないシニカルさに包まれるが、2025年のヒット作『ファーストキス 1ST KISS』で硯カンナ(松たか子)の都合でいくらでも存在がリセットされ、アップデートさせられる夫の駆(松村北斗)の現れ方のバリエーションにしたところで、そのシニカルさは同じである。映画史は「たられば」をめぐる悔恨とたわむれて、自己憐憫と共にもてあそんでいるうちはまだ良かったが、マルチバース(多元宇宙)なる概念を万能薬として便利に流用するようになってからは、ストーリーテリングの掟が崩壊してしまった。歴代スパイダーマン俳優を映画会社の垣根を越えてずらりと揃えるサービス精神の口実に成り下がったのだ。こうなると、映画のストーリーテリングにはリスク管理の経済性も、一回性に対する緊張感も消え失せて、うつろな全能感だけが無根拠に蔓延するばかりである。

坂元裕二でも免れることのできない掟 『ファーストキス 1ST KISS』にみる“マルチバースの病”

長年にわたりTBSドラマを中心に主軸ディレクターとして鳴らし、近年は『ラストマイル』(2024年)、『グランメゾン・パリ』(20…

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