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宮台真司の月刊映画時評 第5回(前編)

宮台真司の『FAKE』評:「社会も愛もそもそも不可能であること」に照準する映画が目立つ

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システムではなく<世界>の問題だ

 ならば何なのか。それが第4パラグラフです。《観客はそこに「社会は一つの(悪)夢のようなものだ」という森達也特有の感覚を見出そう。その(悪)夢は、善悪二元論や真偽二元論や美醜二元論によって言語的に構成されている》。何が言いたいのかお分かりですね。

 2種のフレームを再確認します。本来は社会も愛も完全たり得るのに、何かが邪魔をしているので不完全になっているとする<可能性の説話論>。本来は社会も愛も不可能なのに、何かが働いて社会や愛が可能だと勘違いさせられているとする<不可能性の説話論>。

 ここで質問。森達也監督『FAKE』はどちらか。言うまでもありません。言語によって構成された社会システム(とパーソンシステム)を生きる我々は、真・善・美に関する二元図式によって自らを構成されているがゆえに、必然的にデタラメを免れられないのです。

 本作だけじゃない。森達也監督のTVドキュメンタリー『職業欄はエスパー』(1998年、NONFIX)が本作と同構造です。この作品をリアルタイムで見たとき、<世界>はそもそもデタラメである、とする初期ギリシャ的=ラカン的=ルーマン的な寓意を感得しました。

 この過去作は『FAKE』と同様なアンチノミーを提示します。カメラの「眼前」で起こっている事実があります。例えば、清田益章は、監督が持参したスプーンを首(最も細い部分)に全く手を触れずに切断します。この実演は僕自身も清田益章のそばで目撃しました。

 カメラには次第に亀裂が入る過程などが、確かに映っている。取材過程を通じて森は(≒観客は)清田や秋山眞人や堤裕司ら「エスパー」たちが嘘をついていないことを、確信する。しかし森(≒観客)は経験的にも理性的も「そうした事態」はあり得ないと、確信し続ける

 これらは両立しない。しかしどれも確かだ。観客は、超能力の在不在が主題なのでなく、<世界>はそもそも「そう」だという寓意が主題なのだという事実に気付きます。超能力をどう考えるべきかという主体subjectの問題ではなく、対象objectとは何かを語る作品です。

 そこではパーソンや社会などのシステム(主体)による構成(構築)はもはや問題ではない。因みに「ドキュメンタリーは全てヤラセ」というのは構築主義的主題で、問題を主体subjectに帰属しますが、森監督は『職業欄はエスパー』で既に<世界>を問題にしていたのです。

 『FAKE』も同じです。『A』や『A2』はシステム批判や制度批判のモチーフで解釈できましたが、『職業欄はエスパー』と『FAKE』はそうではありません。『FAKE』で既に語られてきた批評的な言説はそれを見逃します。ラカン=ルーマン的な教養が必要です。

ソクラテス的な<遅れ>が帰結する批判

 と言いましたが、嘘です。森監督はそうした教養を前提に<世界体験>を得ている訳じゃない。では、森監督の「両立しない複数の確信を、両立しないままに維持し続ける」という<世界体験>の構えは何に由来するのか。問題が再び主体subjectへと投げ返されるのです。

 それが第5パラグラフの《森達也はこの言語システムの作動クロックに同期できず、いつも反応が遅れる未熟児だ。だから社会批判の能動性より、社会という夢にシンクロできない受動性が際立つ》に関連します。僕は数十年来<遅れ>の問題として扱ってきました。

 クロック云々はそれを指し示す言葉です。私は森達也監督と鈴木邦男氏に同様な<遅れ>を見出します。<遅れ>をパラフレーズすれば「ソクラテス的な無知」。大抵のアテネ市民は「知らないことを知らない」のが、ソクラテスだけ「知らないことを知っている」のでした。

 「ソクラテスの弁明」「テアイテトス」が示す様にソクラテスにとって「自分には分からない」というのは受動的<体験>ですが、彼に「自分には分からない」との表明を突き付けられて市民らがフリーズした瞬間、ソクラテスの無知表明が、批判の能動的<行為>になります。

 鈴木氏と森監督の共通性は、普段の会話から、仕事としての文章や映像に至るまで「自分には分かりません」という表明が充ちること。彼らを前にした僕は、「自分は分かっている」と思う自分が「知らないことを知らない」存在である事実を突き付けられ、恥じ入ります。

 二人には深い教養がありますが、そうした教養(ラカン=ルーマン的な教養!)によって批判の能動的な<行為>を完遂している訳じゃない。そうじゃなく、むしろ言語的に構築されたシステムに同期できず<遅れ>る<体験>自体が批判の<行為>を構成するのです。

 アテネ市民同様、我々も多くの場合、先に挙げた3つの確かさが構成するアンチノミーに耐えきれず、確かさのどれかを抑圧して認知的整合化を達成します。フロイトに従えば、これは自我(自己イメージが/を可能にする作動)のホメオスタシス=防衛機制に因ります。

法や自我の言語的働きで馴致される

 <遅れ>の<体験>を媒介にしたソクラテス的<行為>によって我々はどんな批判を<体験>するか。それが第6パラグラフです。《その(=社会の夢にシンクロできない森監督の受動性の)結果、「知らないうちに自分たちはプログラムされている」との感覚がせせり出す》

 先に、本来は社会も愛も不可能なのに、何かが働いて社会や愛が可能だと勘違いさせられている、と言いました。「何かが働いて」と言いましたが、働くものの一つが自我のホメオスタシス=防衛機制です。その結果我々は、二元論的に構成された社会という夢を見ます。

 第6パラグラフ後段は《本能が未発達なまま生誕するヒトは、実は誰もが外傷的にプログラミングされる他ない》。フロイトによると本能にはエネルギーとプログラムがあるけど、ヒトは生理的早産なので、エネルギーだけでプログラムを欠いた欲動(衝動)があります。

 本能の生得的プログラムの欠如を、インストールされた習得的プログラムが埋め合わせた結果、欲動の多くは欲望によって上書きされます。但し、上書きし切れなかった欲動と、法や規範の習得と引替えに膨張する超自我(闇の法!)に由来する侵犯の欲動が、残ります。

 欲動と違い欲望は、社会システムの秩序(法)やパーソンシステムの防衛機制(自我)によって、言語(シンボル)を用いて馴致されているので、比較的<バランス>を取り易い無害な快楽と結びつきます。他方の欲動は、法と自我の裏側にある<過剰>な享楽と結びつきます。

 主体は、法と自我の言語的機制を通じて、欲動driveから欲望desireへ、享楽jouissance (オーガズムの到来)から快楽pleasureへと、外傷的に抑圧・加工されます。まさに《本能が未発達なまま生誕するヒトは、実は誰もが外傷的にプログラミングされる他ない》のです。

 こうした外傷的な加工によってインストールされた、ヒトが人畜無害に生きるためのプロトコルが、真/偽、善/悪、美/醜などといった言語的二項図式です。社会システムの秩序(法)もパーソンシステムの防衛機制(自我)もこうした二項図式なくしては働きません。

 その結果、言語が構成する社会システムとパーソンシステムを生きる他ない我々は、少しも自明ではない真善美などに関する二項図式の働きのせいでデタラメを免れられません。佐村河内氏を騙すフジテレビや最初に記事を書いた神山典士氏が悪の起点ではないのです。

主知主義的な本質疎外論・対・主意主義的な受苦的疎外論

 要は、ヒトが社会を生きること自体がそもそもデタラメを生きることだということです。今回の作品はそのことを忘れるなという含意を持つ寓話──<世界>は確かにそうなっている──です。ところが我々はそのことを忘れる気休めについつい淫してしまいがちです。

 それを踏まえると、森達也監督の表現はそもそも2段階になっています。(1)<世界>はそもそもデタラメであることを忘れるなという寓話告知の段階。(2)寓話に反してヒトを気休めの俗情(多くは超自我的な欲動)に関わる釣りで翻弄するマスコミを批判する段階。

 森監督の作品はそれに応じて2系列に分かれます。『職業欄はエスパー』『FAKE』の寓話系列と、『A』『A2』の批判系列です。前者を踏まえて後者があるという論理関係です。だから観客が敏感であれば批判系列をも寓話系列として享受することができます。

 その意味で主軸は飽くまで「<世界>はそもそもデタラメであり、<社会>とは所詮その程度のものだ」とする寓話性にあります。単なる個別メディア批判を超えた寓話性ゆえに僕は過去二十年、<遅れ>をキーワードに森達也監督の表現を全面的に支援してきました。

 森作品が総じて、メディア批判の枠を超えた、<世界>はそもそもデタラメであることの告知であることを、ご理解いただきました。とすれば、しかし、それは何を批判しているのでしょうか。我々をどう批判しているのでしょうか。それが最終パラグラフです。

 最終パラグラフは《本作は、我々が社会を生き始めるに際して受け取った外傷体験を強制的に思い出させる。そう、社会は間違いなく、善悪や真偽や美醜の二元論で言語的に構成された悪夢なのだ》とあります。正しい社会と間違った社会があるのではないということ。

 ハイデガーを想起させます。彼によれば「ヒトは概念言語を用いる理性的な存在だから、どんな<ここ>にも<ここではないどこか>を対置してしまう」存在です。その<ここではないどこか>も<ここ>にもたらされた途端、ヒトは<ここではないどこか>を夢想します。

 これが「脱自」です。ハイデガーの言葉では<ここ>が非本来性で<ここではないどこか>が本来性ですが、ヒトは「脱自」するので本来性に行き着けないということです。換言すれば、ヒトはいつも別様であり得る可能性=<ここではないどこか>から、疎外された存在です。

 これを<受苦的疎外論>と呼びます。これはヒトに回復されるべき本質を想定する<本質疎外論>に対立します。<受苦的疎外論>はかかる本質の措定を拒絶します。マルクスが<本質疎外論>から<受苦的疎外論>にシフトしたとするのが廣松渉先生の有名な仮説です。

 <受苦的疎外論>は直ちに永久革命論を帰結しますが、<本質疎外論>と<受苦的疎外論>の対立は、歪みなき理想的自我の回復を目指す米国流自我心理学と、どんな自我も葛藤を覆い隠す拘束具だと見做すフロイト=ラカン流精神分析学との、対立として反復されます。

 冒頭に戻れば、[可能性の説話論=主知主義=本質疎外論=米国流自我心理学]という系列と、[不可能性の説話論=主意主義=受苦的疎外論=欧州流精神分析学]という系列が存在する訳です。ちなみに前者が左翼的なのに対し、後者は右翼的=新左翼的だと言えます。

 かくて、映画や小説などの表現から、思想や哲学、心理学や精神分析学まで含めて、巷間2つの対照的な系列が存在することが分かります。冒頭に述べた通り、昨今は久々に右翼的=新左翼的の表現・思想・学問の系列が浮上しています。その最先端が『FAKE』です。

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