宮台真司の『岸辺の旅』評:映画体験が持つ形式のメタファーとしての黒沢作品

宮台真司の『岸辺の旅』評

まさにザ・クロサワ・ムービー

 今回は黒沢清監督『岸辺の旅』(10月1日公開)を取り上げましょう。まず結論から言うと、彼の原点である『CURE』(1997年)から続くモチーフを反復しながらも、後味がすこぶるよろしいという意味で、万人に勧められる映画だと思います。
 
 その一方で、革新的な作品が選出される、カンヌ映画祭の「ある視点」部門で、監督賞を受賞した理由も、よく分かります。つまり、黒沢清作品によく触れている人間からすると、「いつもの前衛的な黒沢ホラーだ」と思える作りでもあるのです。
 
 実は僕、「感動的な映画だった」という人が多いので、「感動的な文芸作を撮るなんて、 堕落したのか」と、観るのに勇気が要りました(笑)。でも、観てみたらいつもの黒沢清でした。それなのにいつもの難解さがなくて、分かりやすい映画であるのに驚きました。

 本作は、湯本香樹実による同名小説の映画化です。失踪した夫・優介(浅野忠信)が3年ぶりに妻・瑞希(深津絵里)の元に突然帰ってきて、3年前に自殺したのだと告げます。そして、夫婦で、幽霊になった夫の3年間の遍歴をたどり直す旅に出ることになります。

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謎解きに到るロード・ムービー

 この映画の最初で最大の謎は、「なぜ優介は3年も経ってから妻に会いに来たのか」ということでしょう。妻が大切ならば、すぐ会いに来るはずです。普通に考えれば、妻という存在の優先順位が相対的に低かったのだ、ということになってしまいそうです。
 
 観客はその疑問に引っ掛かりながら映画を見続けることになるはずですが、映画が進むにつれて、妻が大切でなかったのではない、逆に大切だからこそ妻に会うためには3年の遍歴が必要だったのだ、ということが分かってきます。その意味で、謎解きの映画です。。

 妻は、夫が失踪した理由をどうしても知りたいのです。理由がわからないうちは宙づりの状態に留め置かれて、普通に生きていくことができません。冒頭、彼女がピアノ教室で女の子を指導する場面で、妻が魂を失った抜け殻のように生きていることが示されます。
 
 実は、そうした妻の悩みと、夫が死んだ理由とが、関連していることが分かってきます。夫・優介は、大病院に勤めるエリート歯科医で、周囲からは何不自由ないように見えています。でも実際は本当の自分が何者かということが分からぬまま、フワフワと生きていた。
 
 その事実が「オレ、なんで歯医者なんかやってたんだろう」という優介の回顧的台詞で示されます。発作的自殺(海への飛び込み)の原因が何であれ、死んでからやっと、生前にはやりあぐねていた自分探しの旅を、一人きりで始めることになったということです。

 初老の新聞配達員の店、夫婦で切り盛りする食堂を経て、最後に山村の農園家族を訪ねて村人を相手にした私塾で宇宙の始まりや終わりについて話すようになります。彼は自分がそういう話がしたかった人間なのだという事実を知り、自分探しの目標を達成します。

 3年の旅の最後に、長らく曖昧だった自分の輪郭を掴んだ。だから妻の元に戻るのです。旅の3年がなければ、優介は自身の死を妻に納得させられなかったはず。そして、その3年間を妻と一緒に辿り直す「岸辺の旅」を通じて、自分が何者であったかを妻に示すのです。

映像的快楽と実存的快楽の結合

 冒頭に話したように、本作では、黒沢作品に一貫するモチーフが最も分かりやすく示されます。この社会においては、誰しもが輪郭がぼやけ、相手が何者なのか、自分が何者なのかすら、皆目分からず生きている--そうした不全感が黒沢作品の出発点になります。

 そして、結末がハッピーエンドかバッドエンドかに関係なく、「ようやく“自分”にたどり着いた」と思えた地点で映画が終わります。今回もそうです。僕は原作を知りませんでしたが、黒沢作品にピタリと合う原作をよくもハンティングできたものだと思いました。

 「分かりやすい」と言っても、黒沢作品としてはの話。黒沢監督はハリウッド映画をヌーベルバーグ的な意味で--トリュフォーやゴダールのように--愛する映画マニアです。だから「映像を使って想像させること」を好む一方、「映像で説明すること」は極端に嫌います。

 映画が指し示す虚構が360度丸い輪だとすると、黒沢作品に描かれるのは所々が欠けた輪です。観客は欠けた部分を補いつつ映画を見ます。見えない全体を想像する映像的快楽が、主人公同様に観客にとっても「自分をたどる旅」に重なって実存的快楽を与えます。

 その意味で、夫婦揃っての辿り直しの旅の最初に、優介が世話になった初老の新聞配達員を訪ねるのですが、幽霊男である新聞配達員が、思いを遂げて消えると同時に、周辺が廃墟に変わる場面が大切です。黒沢ファンであれば「待ってました!」となるところです。

 「黒沢作品だからいつも通り廃墟が必要だ」というサービスもありますが(笑)、この場面で主人公夫婦が見ていた光景は幽霊が見せたビジョンだったという事実が分かった結果、論理的に、その後のエピソードの全てが幻かもしれない、ということになるのが重要です。

 本作が素晴らしいのは、最初のエピソードに於いてだけ幻だったことを示した後、それを繰り返さないところ。過剰な説明をしない。だから観客は「何かおかしい」という違和感を伴うビジョンに敏感になり、誰が幽霊なのか分からない不安感で胸が苦しくなるのです。

 これが実存的快楽ならぬ映像的快楽です。映像を見つつ、あれはああなのか、これはこうかと想像が触発されます。全体として安定した構図に収まらない映像モチーフの集合があり、観客は自分で何かを補わない限り、安定した体験が得られないようになっています。

 表象つまり「見えているもの」が何なのかが宙吊りにされ、そこから安定した虚構を想像するための映像的な謎解きが要求されるのです。この映像的快楽に彩られたコストを支払うことの見返りが、観客自身にとっての自分発見という実存的快楽だという仕掛けです。

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