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宮台真司の月刊映画時評 第5回(前編)

宮台真司の『FAKE』評:「社会も愛もそもそも不可能であること」に照準する映画が目立つ

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当初与えられる勧善懲悪のカタルシス

 森達也監督が佐村河内守に迫ったドキュメンタリー『FAKE』(6月4日公開)は、本当に素晴らしい作品でした。いくつも優れた点があり、さまざまな面から論じることができます。手はじめに、僕がこの作品に寄せたパンフレット用のコメントを紹介しましょう。

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観客は最初、マスコミが作り上げたリアリティがガラガラ音を立てて崩れるのを感じる。
だから当初は「マスコミ=悪/森達也=善」という森達也らしからぬ二元図式を見出そう。

だがしかし、「我々が期待する真実」が「コレだ」と指し示される瞬間は最後まで訪れない。
むしろ我々は迷宮へと誘われ、収拾しようのない混沌の只中に放置されることになろう。

本作に於いてゴーストライター事件は、寓意を指し示すメタファー以上のものではない。
問題は、その寓意──「世界は確かにそうなっている」という納得──が指し示す内容だ。

観客はそこに「社会は一つの(悪)夢のようなものだ」という森達也特有の感覚を見出そう。
その(悪)夢は、善悪二元論や真偽二元論や美醜二元論によって言語的に構成されている。

森達也はこの言語システムの作動クロックに同期できず、いつも反応が遅れる未熟児だ。
だから社会批判の能動性より、社会という夢にシンクロできない受動性が際立つだろう。

だがその結果「知らないうちに自分たちはプログラムされている」との感覚がせせり出す。
本能が未発達なまま生誕するヒトは、実は誰もが外傷的にプログラミングされる他ない。

本作は、我々が社会を生き始めるに際して受け取った外傷体験を強制的に思い出させる。
そう、社会は間違いなく、善悪や真偽や美醜の二元論で言語的に構成された悪夢なのだ。

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 7つのパラグラフを順番に説明します。最初のパラグラフ。本作は、起承転結の「承」までは、佐村河内守側のリアリティに寄り添うことで、彼を血祭りに揚げたマスコミやライターが逆に血祭りを揚げます。だから観客は勧善懲悪的なカタルシスを体験して喜びます。

 しかし森監督のドキュメンタリーを見てきた観客は、善悪の二元図式を前提とした悪者叩き──特に或るテレビ局が叩かれている訳ですが──は「らしくない」「おかしいな」と思い始めます。「これでは既知の目標に向けて人を鼓舞するプロパガンダじゃないか」と。

途中で形成が逆転して観客が宙吊りになる

 そこに起承転結の「転」が訪れます。奇妙なことに「転」をもたらすのは外国人の記者たちです。自分の原案を新垣隆氏が技術的な洗練を加えて譜面化しただけだという佐村河内氏に対し、ならば現に音楽的な原案を出した(出せる)という証拠を見せろと言うのです。

 自分が作った音源が多数あるとドキュメンタリーを見る前から「言葉」では聴いて来た観客は膝を打ちます。そう。なぜこの質問がいまだかつて日本人の取材者らから為されなかったのか、日本人のジャーナリストやマスコミ人の無能さは聞きしに勝るではないかと。

 まさに「形成逆転」です。森の導きによって佐村河内氏側に連れて行かれ、佐村河内氏に寄り添っていた観客が、新垣氏側=マスコミ側に再び連れ戻されます。観客は思います。森達也もまた、大半の日本人ジャーナリストやマスコミ人と大差なく、無能ではないかと。

 観客は苛立つ。一体どちらに寄り添えば良いのだ? どちらが真実なのか? そして気付きます。そう。それこそが作品の構成だ。こうやって観客をサスペンディングな(=宙吊り的)状態にした上で、溜飲を下げるカタルシスに満ちた大団円で、真実が明かされるのだと。

 ところが、そうならないのです。この映画の試写を見る条件「ラスト12分を誰にも話さないで下さい」の枠内で言いますと、観客が「佐村河内氏には無理だろう」と思っていた営みを、森監督の提案で佐村河内氏が大々的に展開し、その姿を映画が見事に記録するのです。

 それを見た観客は狐に摘まれ呆然とします。疑問1:待ってくれ、だとするなら、佐村河内氏は、なぜもっと早く──例えば新垣氏が最初の会見をした直後から──この姿を人に見せなかったのか。疑問2:待ってくれ、だとするなら、なぜ新垣氏が必要だったのか

 「待ってくれ」と座り直した瞬間、暗転してエンドロール! 《我々は迷宮へと誘われ、収拾しようのない混沌の只中に放置されることにな》ります。どの仮説を採用しても説明がつかない事実が残ります。否、「BL仮説」だけが矛盾を解決できそうだと一瞬思います。

 ところが映画は当初から、佐村河内氏と奥様の愛に溢れた信頼関係を描き、森監督はお二人のそうした姿を撮ることがドキュメンタリーを制作する動機になっているとまで語る。そこには普通の夫婦にはあり得ない絆が描かれます。何とも意地悪な仮説潰しなのですね。

オーソン・ウェルズ『フェイク』との違い

 映画好きの観客は、別の監督が撮影したドキュメンタリー素材に、ラスト数十分わざとフェイク・ドキュメンタリーを混ぜ込んだ(と自己言及する)オーソン・ウェルズ監督の同名映画『フェイク』(1974年)を思い出します。むろん森監督はそれを踏まえています。

 ラスト12分にフェイクを混ぜたと思えば全てに解決がつくな、と思った瞬間が僕にもあります。でもこの仮説は困難です。確かに、森監督の提案で佐村河内氏が或る営みを展開しました。でも、存在しない能力に関わる詐称の教唆なら、トンデモナイことになります。

 自己言及の在不在が、そこでは決定的に機能します。但し、自己言及の不在が、森監督の表現者としての生命を終わらせることよりも、むしろ、それがドキュメンタリー作品の主題自体を意味論的に成立不可能にしてしまう、という必然的問題の方が、遙かに重要です。

 なぜなら、ここでの森の主題は「全てのドキュメンタリーはヤラセだ」という往年の主張ではないからです。演出と詐称教唆の境界線が原理的に截然としがたいことは森にとって今やデフォルトですが、この作品では主体(表現者と観客)ではなく、対象が主題なのです。

 そのラカン的主題が第3パラグラフに関係します。ラカンに従えば対象は単に恣意的に構成されるのではない。主体に与えられる対象はすべて必然的理由で必要な機能を果たします。必然的理由は、<世界>が根源的未規定性と共にあらざるを得ない事実に関係します。

 <世界>の根源的未規定性をラカンは「現実界」と呼びます。彼は、飽くまで例として、ハイゼンベルグの不確定性原理や、ゲーデルの不完全性定理や、自己言及のパラドックスを挙げます。これらは必然的=数学的なもので、これに反する<世界>は存在できません。

 ちなみに、こうした<世界>の根源的未規定性(現実界)が、言語(象徴界)を用いたヒトの<世界体験>(想像界)を方向づけます。<世界>を<世界体験>へと変換する函数が、言語で形成された意味システムとしての、パーソンシステムであり社会システムです。

 社会システム理論では、<世界>の根源的未規定性を、受容可能なものへと馴致する装置が宗教。宗教は<世界>の根源的未規定性が露呈しやすい特異点にサイファを当てがいます。この宗教の項に「自我」を、サイファの項に「症状」を代入すれば、ラカン図式そのもの。

 サイファ概念については拙著『サイファ 覚醒せよ』(2000年)に詳述しました。本作で森監督が示すのは、<世界>は確かにそうなっているという寓意です。「ドキュメンタリーは全てヤラセだ」「ドキュメンタリーは嘘をつく」みたいな小さな話では全くありません。

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