『さようなら』公開記念インタビュー
深田晃司監督が明かす、『さようなら』で描いた“メメント・モリ”と独自の映画論
「『さようなら』は全部で38シーンぐらいしかない」
ーー本作はクラウドファンディングで資金集めをしていましたよね。そのときは尺が90分予定となっていたのですが、実際にできあがった作品は2時間近くありました。これは脚本段階で延びていったのでしょうか? それとも製作段階でしょうか?
深田:クラウドファンディングを始めたときはまだ脚本が出来上がっていなかったんです。もちろん脚本段階で膨らんでいる面もあると思うんですけど、たぶん撮影段階ですね。僕も最近脚本を見直してみて驚いたことがあったんです。ちょうど今、僕は新作映画を撮影しているんですけど、シーンの数が145シーンぐらいで、2時間ちょっとかなってぐらいの長さの映画なんですよ。でも『さようなら』は全部で38シーンぐらいしかないんです。だから1シーン1シーンがものすごく長いんですね。何でもない時間をものすごく長く撮ったりしているので。例えば、ターニャが部屋で寝ていて、起き上がってお茶を飲んで戻って来るっていう流れを全部1カットで長く撮るとか。そういうことをやっていったので、尺が長くなっていったんだと思います。
ーー舞台版でも主役だったブライアリーさんを、映画版でもターニャ役で主演に迎えようというのは最初から決めていたんでしょうか?
深田:それは最初から決めていました。外国人でありながらアンドロイドと日本語で話している奇妙な面白さもそうですが、多言語を話せる彼女の無国籍な個性というのも映画の中で活かせたら面白いなと思い、人間らしさとアンドロイドらしさのイメージを崩していくポイントになりましたね。あとはやっぱり、日本が破滅して日本人が苦しむというドメスティックな話ではなく、災害が起こったときに苦しむ人たちに国籍は関係ないという世界観を取り入れたかったので。映画化すると決めてオリザさんに許可をもらった時点で、ブライアリーさんにも出演をお願いをしました。彼女は製作段階の資金集めのところから動いてくれて、プロデューサーの1人としても名前を連ねています。
ーー今回、レオナ役のアンドロイド・ジェミノイドFも主要キャストの1人ですが、役者陣だけでの撮影と比べて大変なことも多かったんじゃないでしょうか?
深田:それがですね、ものすごい大変なエピソードがあったら面白いんですけど、あんまりなかったんですよ(笑)。演劇の方では、公演中にアンドロイドが止まって大変だったみたいな話を聞いたり、その場に立ち会ったりもしたんで、「映画はもっと大変だぞ」と思ってたんですけど。撮影日数も11日しかなくて短期間だったので、途中でジェミノイドが止まったり壊れたりしたらもう撮影中止だ、みたいな。そう思ってハラハラドキドキでみんな覚悟して臨んだんですけど、結局撮影中にジェミノイドが止まることはほとんどありませんでした。撮影のほうもスムーズで。それはやっぱりアンドロイド演劇が2010年から繰り返し演じられていて、技術者の方もブライアリーさんも演劇のほうでもずっと一緒だったので、経験の蓄積があったんですね。あとはやっぱり、2時間だったら2時間、90分だったら90分、ノンストップで動き続けなきゃいけない演劇と比べて、映画はどんなに長くても1カット数分で終わって、1回カメラを止めてまたセッティングできるので、アンドロイドにとっては映画のほうが演劇に比べて負担が少なかったんじゃないかと思います。
「社会派だから原発を描いたわけではない」
ーー難民問題や原発問題といった社会問題も作品の随所に散りばめられていますが、このようなテーマを組み込もうと思った理由はなんでしょうか?
深田:原作の『さようなら』は第1部と第2部があって、第2部には福島のことが出てきて、最後は壊れたアンドロイドが福島に派遣されるところで終わるんですけど、僕が観て原作にしようとした第1部には、原発も何も出てこなかったので、僕が映画にする上で勝手に付け加えました。前作『ほとりの朔子』でも、福島からの避難民という少年を描いているんですけど、僕が社会派だからそのような問題を描いてメッセージを伝えたいという思いは全くなくて。ただ、世界にはそういうこともありえるというレベルで描きたいと思っていて。それはつまり、『ほとりの朔子』に例えて言えば、恋愛ごっこに興じる少年少女の物語で、本来そこに原発問題なんか入れなくても済むといえば済むんですよ。でも、彼らの立つ地面は、福島や世界中で起きているあらゆる災害と地続きであるという、そういった世界観は忘れず持っていたいという気持ちがあったんです。
ーーその原発が原因で、様々な人々が映画の中に出てきては消えていきますよね。中でも、山下(村上虹郎)と木田(木引優子)がでてくるシーンが印象的でした。
深田:全体的な大枠で言えば、“孤独に死んでいく女性”というのが1番の核として描かなければいけないモチーフだったんです。ターニャの周りに、恋人、友達、家族など、いろいろな人物がいて、彼らが彼女の元から離れていってしまった後に、ターニャとアンドロイドだけが残される。世界そのものが死に進んでいくような…ある意味、陰湿でネガティブな世界観の中で、基本的には未来が閉ざされていくような話なんですけど、村上さんと木引さんが出てくるシーンだけは、未来を感じさせたかったんです。国が滅びて故郷を追われるというのは、ものすごくネガティブで悲しくて辛い出来事だと思うんですけど、実際の人々の受け止め方は多様だと思うんですよね。ひとつの災害があって、そこに100人の人がいれば、100通りの受け止め方があると思うんです。その中には、「外国の新しい生活楽しみ!」と素直に前向きに受け止めている人も絶対いると思うんです。だから、あのカップルはそういったことの象徴で、今起きていることをそんなにネガティブに捉えていないんですね。
ーー今回、イレーヌ・ジャコブさんと、ジェローム・キルシャーさんという、海外で活躍している2人も参加しています。彼らはどのような経緯で出演に至ったのでしょうか?
深田:もともと僕が『ふたりのベロニカ』という作品が大好きで、イレーヌ・ジャコブさんの大ファンだったんです。実はこの2人は、『変身』という、オリザさんの別のアンドロイド演劇に出演しているんです。僕はその撮影も少し手伝っていて、そのときに「ファンなのでよかったら観てください」と『ほとりの朔子』のDVDを渡しました。そしたら「面白かったよ」とメールが届いて。それで、「実は今こういう映画を作っているので出演してくれませんか」って聞いたら、「いいよ。何時に行けばいい?」みたいな(笑)。あっさりOKをもらいました。
ーーそこもあっさり決まったんですね(笑)。確かに深田監督の作品は海外の方々にも高く評価されています。海外の方にも分かりやすいように作品を作ろうと意識はしていますか?
深田:それは全く考えてないですね。映画を作るときには、自分が最初の観客だと思って、まずは自分が面白いと思えるものを作ろうと。基本的にはそれしかないと思っています。ただ、これは作家なりのセンスの問題にもなってくると思うんですけど、そういうときに普遍的な題材を選べるか、普遍的な価値観を示せるかどうかじゃないかなって。僕にとって普遍的だと思えるテーマやモチーフを扱うことができて、それがうまくいけば、日本人に限らず世界中の人がちゃんと何かしら面白がってくれるはずだと思っています。