『HERE 時を超えて』圧巻の“時間芸術” 原作版の“空間”配置はどう映像化されたのか?

『HERE 時を超えて』圧巻の“時間芸術”

 施川ユウキのマンガに、『バーナード嬢曰く。』という代表作がある。

 このマンガの独特な面白さを説明するのはなかなかにむずかしいのだが、おとぼけ読書好きの町田さんにツッコミの神林、ひと昔前の流行本を好む遠藤くんに彼を密かに恋慕する真面目な長谷川さんといった面々が繰り広げる“おもしろ書評マンガ”とでも言うのだろうか。各回短いながらも、ツボを押さえた読みどころの紹介とユーモアが絶妙なバランスで入り混じる、クスリと笑ってしまう名作だ。このシリーズの4巻目に、映画『HERE 時を超えて』のリチャード・マグワイアによる原作本(『HERE ヒア』国書刊行会)が取り上げられていたことをまずは確認したい。

 この原作『HERE ヒア』は、紀元前30億50万年前から未来の2万2175年という驚くほど長いスパンにわたって、ある一つの場所=here「ここ」を定点観測し続けたという設定のグラフィックノベル。作者のマグワイアはコンピュータ画面上のウィンドウがいくつも同時に並置されているさまに刺激を受け、複数のコマ使いによって見開き頁の中に違う時間軸の「ここ」を同時に現出させた。

 『バーナード嬢曰く。』では、終業式の図書館で密やかに『HERE ヒア』を読み耽る遠藤と長谷川が、最後に「図書室ができる30億年前からこの図書室が消え去って2万年経った未来まで……永遠みたいな時間の中机の下のこの小さなスペースで本を読んでいるのは今この瞬間の僕ら2人だけかもしれないよね……」という深遠な認識に達する。長い歴史の裡に起こる無数の生老病死はただ反復されているに過ぎないようにも見えるが、しかし微細な細部の違いによってむしろその都度固有の人生のかけがえのなさが明らかになるのだ。

 このことは、純粋な美学的達成として物語的な要素を排除した原作よりも、複数の人生のドラマを巧みに点描してゆく映画版によってより一層明らかになったように思われる。

 この映画の要をなす重要な主題が「時間」であることはすでに原作の説明からも明らかだろう。そこでまず、そもそも監督のロバート・ゼメキスにとってこのテーマがいかに大きなものだったかを押さえておきたい。

 ゼメキスの代表作『フォレスト・ガンプ 一期一会』(1994年)は、トム・ハンクス演じるフォレストを定点に据えて、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985年)が描き損ねた米国史における1960〜1980年代を切り取った映画だった。ここではトム・ハンクスの演技がケネディ大統領やジョン・レノンのじっさいの映像と巧みに合成されることによって、個人の人生の推移と社会の大きな変化が直結して歴史の流れをそのままダイレクトに浮かび上がらせる効果を生み出していた(ただしここで描かれた歴史観への強い疑義については町山智浩の名著『最も危険なアメリカ映画』を参照されたい)。1人の人物が地獄めぐりともいうべき彷徨をたどる物語はヴォルテールの『カンディード』以来の古典的手法というべきものだが(つい最近もこうした手法を取った傑作にヨルゴス・ランティモス『哀れなるものたち』(2023年)があった)、『フォレスト・ガンプ』はその空間的な拡がりを時間的にも拡散し、歴史めぐりの映画として見事に完成されている。

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