【ネタバレあり】『片思い世界』広瀬すず×杉咲花×清原果耶の放つ“光”がなぜ美しいのか

映画『片思い世界』は、「時が止まる」ところから始まった。
※本稿は『片思い世界』のストーリーにおける重要なポイントや展開を明かしています。ご注意ください。

合唱コンクールの練習に少女たちが集う文化ホールの部屋に降り注ぐ光。美咲(太田結乃)が、気づいたらいなくなっていた典真(林新竜)を探しつつ、彼がそのままにしていったメトロノームを止める。それから少しして、人々は記念写真を撮ろうと集まっていた。シャッター音が鳴り響く瞬間、部屋のドアが開く音がして、誰もがドアの方向を見つめるところでショットが切り替わる。映像は、つかの間静止画となり、それはどことなく(その後の展開を知ると余計に)「永遠に時間が止まってしまった」かのような印象を与える。
でもそれはこちらの勝手な思い込みで、彼女たちの時間はちゃんと前に進んでいたのだ。その証拠に、大きくなった美咲(広瀬すず)、優花(杉咲花)、さくら(清原果耶)の家には、その時の写真が飾られている。「終わり」の瞬間ではなく、「3人で暮らす日々」の歴史が「始まった」記念として。
もしかすると本作において、本当の意味で「片思い」なのは、彼女たちが「片思いする」典真(横浜流星)であり、優花の母・彩芽(西田尚美)であり、世界なのではないか。彼女たちは彼らのことが見えるけれど、彼らは彼女たちの思いを、想像することしか許されないのだから。たとえ彼女たちが、誰かの「そうあってほしい」という願いが形作った、映画の中だけにしかいることのできない存在だったとしても。本作は、人々に「ただのかわいそうなおはなし」と一括りにされた悲しい事件の当事者である少女たちが「ちゃんと生きた」ことの証のような映画だ。

『花束みたいな恋をした』の脚本・坂元裕二と監督・土井裕泰のタッグによる映画『片思い世界』。2月に公開され現在も上映が続いている『ファーストキス 1ST KISS』 に続き、坂元裕二のオリジナル脚本作品を連続して観ることができるという贅沢もなかなかない。全く異なる性質を持った2つの作品は、ある1点で密接に交わり合う。「過去も未来もミルフィーユのようにあって、同時に存在する」『ファーストキス 1STKISS』と、「世界はひとつじゃなくて、無数のレイヤーでできてる」『片思い世界』。
どちらも死を以て永遠に分かれてしまったと思っていた世界が、思わぬところで繋がっていた話であり、届かないと思っていた切実な思いが届くまでの話だ。坂元裕二はかつて「片思いは1人で見る夢」であることを『カルテット』(TBS系)第8話ですずめ(満島ひかり)の夢を通して描いて見せたが、本作におけるこの世界のほとんどは、誰かの「片思い」でできている。もっと言えば、本作は「片思い」を軸に、世界を大きく半分に分け、その両側から見つめるような映画だ。片方は、美咲・優花・さくらの片思い世界。もう片方は、彼女たちを思い、彼女たちがいなくなって以降、時が止まってしまったかのような世界を懸命に生きてきた典真、彩芽の片思い世界である。本来私たちは、後者の思いしか知り得ない。本作が描いたのは、本来知ることが叶わない、前者の思いだ。そして、前者の世界を通して後者の世界を見ること。つまり死者の視点から見ることで「生きるとは何か」を考える映画でもあった。
「君たちが思い描く未来が窓から斜光になって降り注いでいた。あの光。あの光をお遣いのお財布のようにぎゅっと握りしめ、こぼさないようにそのまま胸に抱えて廊下を走って走って走って走って走って、今君たちはそこにいる」
『片思い世界』(リトルモア)より
映画『片思い世界』のシナリオ本『片思い世界』(リトルモア)の巻末に添えられた文章の中に、そんな一節があった。

まさに、広瀬すず、杉咲花、清原果耶演じる美咲・優花・さくらの3人は、光り輝かんばかりの美しさだった。どうしてこんなにも彼女たちは満ち足りていて、幸せそうなのだろうと考えていると、ある決定的な1点を除いて、彼女たちは何も失っていないからだということに気づいた。逆を言えば、少しずつ、何かを失っていくのが、人の一生とも言える。





















