追悼・福田和也「保守革命主義者のとんかつとアジビラ、その享楽」 ーー絓秀実・寄稿

福田和也『遥かなる日本ルネサンス』(文藝春秋)

  とんかつを福田和也と一緒に食べたことがある。今となっては定かには思い出せないが、福田がまだSFC(慶応大学環境情況学部)の助教授に就任する以前、慶応大学文学部(三田)の非常勤講師をしていた頃だから、1990年代初めのことである。

  私は1991年秋には福田と多少の面識を得ていた。1990年に滞在していた米国の大学図書館で、日本の言論状況を知るべく偶々読んだ雑誌に掲載されていた福田の『遥かなる日本ルネッサンス』の一部に接し、若いらしいが聡明な「保守」の登場が、記憶に刻まれていた。

  1991年の帰国後、これまた偶々、ある酒場で遭遇して互いに自己紹介したのが最初である。ただ、それ以前から「福田」という名前は知らずとも、コラボラトゥールをやっている面白い研究者が、国書刊行会の周辺にいるらしいことは、蓮實重彦から漏れ聞いていた。

 『奇妙な廃墟』(1990年)が出る以前だと思う。福田の『奇妙な廃墟』は、コラボ作家の翻訳シリーズ「1945:もうひとつのフランス」を出していた国書刊行会から、シリーズの別巻として出た。その異能の担当編集者とは、私は面識を得ていないが、確か、彼も早世した。

  そうこうしていた折、福田から電話がかかってきた。「一緒にやっている古屋健三教授の文学の授業で、ゲストとして一度、講義をしてほしい」というものだった。恐れ多いことだったが、お引き受けした。古屋とも、私は編集者時代から面識があり、敬意を抱いていた。けっこう大きな教室で、何を喋ったのか定かに記憶はないが、当時から手をつけていた漱石批判のようなものではなかったか。学生の反応は鈍く、講義内容も不十分で冷や汗ものだったが、古屋からは、「良く調べているね」との外交辞令をいただいて、恐縮した。夕刻だったこともあろうか、古屋から「飯でも食いましょう」と言われ、三田のとんかつ屋に案内されたのである。

  福田和也といえば、生前から、江藤淳との師弟関係が云々される。それは間違いではないのだろうが、私は古屋健三との関係こそが重要であると思ってきた。そのことは、福田も明確に書いている。事実、二人は慶応仏文で師弟関係であったわけである。私がおもむいた授業においても、福田は師を畏敬する礼儀正しい弟子として、古屋に接していた。私とて福田の高名な「無頼」やら「放蕩」を知らないわけではないが、古屋との関係では、そんな様相は微塵もなかった。

『大岡昇平全集12』(筑摩書房)

  そのことを示すのが、筑摩書房版『大岡昇平全集』12の月報に掲載された「古屋健三と大岡昇平」(1995年)という短文である(福田の評論集『南部の慰安』1998年、の巻頭に再録)。この二人のスタンダリアンを並べて、大岡昇平のスタンダール理解の浅さを徹底的にコキ下ろし、古屋健三を絶対的に称揚する文章を初出で読んだ時、私は少し震え、福田に手紙を書いてしまった。メールなど普及していない時代である。

  福田の書き遺したものはすべて(と言っていいだろう)アジビラであり、読み捨てられるべく書かれていて、そこから詳細に論理や思想を抽出することは、あらかじめ拒否されている。それが福田の類まれな才能であったが、なかでもこの「古屋健三と大岡昇平」ほど切れ味を発揮している文章は少ないだろう。それは、福田が江藤淳から継承し、ある時期から見失ってしまったと回顧する「妖刀」(『放蕩の果て』2023年)かも知れぬ。だが、私見では江藤に妖刀はない。福田のみのものだった。

福田和也『日本の家郷』 (洋泉社)

  私は本稿を書くために、整理の悪い貧弱な書棚から、あの膨大な著作の全てではないにしろ、ある程度は所蔵しているはずの福田の本を探し出そうとした。ところが、一冊も見いだせないのである。私は、福田の慫慂らしいのだが、洋泉社新書版『日本の家郷』の「解説」(2009年)を書いている(いちおう、気に入ってもらえたと聞く)。しかし、それさえ見当たらないのだ。そして、しばらくしてあきらめた。福田の書いたものはアジビラだから、紛失して当然と思ったのである。仕方ないので、近くの貧相な公立図書館に行って何冊か借りてきた。福田が死んだというのに、福田の本を借り出している人間は誰もいなかった。そして、その図書館が所蔵している福田本は、私が持っているはずの福田本より、はるかに少なかった。それはそれで良いと思った。

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