倉田真由美、亡き夫・叶井俊太郎さんへの想い「亡くなる前日の食事はファミチキでした」
■映画界の鬼才、叶井俊太郎の死
伝説の映画プロデューサー、叶井俊太郎が2月16日に56歳で亡くなり、早くも3ヶ月が過ぎた。昨年10月、叶井はステージ4の末期の膵臓がんを患っていると公表したが、同時に標準治療を行わないと宣言し、それまで通りに仕事を続ける意思を示した。この発言が世間に大きな衝撃と驚きを与えたことは記憶に新しい。
10月30日には『エンドロール! 末期がんになった叶井俊太郎と、文化人15人の“余命半年”論』を出版。末期がん患者である叶井が、各界の第一人者にインタビューする異色の構成で話題となった。12月8日には、自身がプロデュースする映画『恐解釈 桃太郎』が公開されるなど、精力的に活動を展開していた。
筆者は昨年10月、叶井にインタビューをしている。「人生、特に未練がない」と語り、末期癌患者であるにも関わらず、時折ギャグを飛ばしながら話す姿が印象的だった。特に、制作中の映画について語る叶井の目は少年のように輝き、末期がん患者にインタビューしているとは思えないほどだった。
叶井は、その豪放な生き様でも常にメディアを騒がせる存在であった。女性経験は600人以上で離婚歴は3回、自己破産も経験している。にもかかわらず、常に周囲を惹きつける存在であったことは間違いないだろう。没後3ヶ月を経た今、叶井の妻であり、最期を看取った倉田真由美に心境を語っていただいた。
■倉田真由美は今、何を思うのか
――叶井俊太郎さんが亡くなり、3ヶ月が過ぎました。
倉田:2022年6月に末期の膵臓がんの宣告を受けてから、夫は一度も後悔を口にせず、「いつ死んでもいい」と最後まで言い通しました。余命半年、もって1年と診断されたのですが、いわゆるがんの標準治療を行わずに1年9ヶ月生きました。ファストフード主体のでたらめな食生活を続けていたのに、頑張って生きたと思います。
――1年9ヶ月の間、標準治療以外の治療は行いましたか。
倉田:胆管を通すステント手術を3ヶ月に1回、十二指腸が圧迫されたときは胃と小腸を繋ぐバイパス手術もしました。夫はいつ死んでもいいとは言うものの、死ぬまでの間に痛いのは嫌だし、好きなものを食べられないのも嫌だったんです。治療はそうした苦しみを和らげる目的で行ったものです。
――がんと宣告されると、頭の中が真っ白になる人がほとんどではないでしょうか。標準治療を受けないと決めるのは、そうそうできることではりません。治療を受ければ長生きしたのではないかと、倉田さんも複雑な思いを抱くことがあったのではありませんか。
倉田:そうですね。そこは、私と足並みはそろっていなかったですね。本人は最後まで何の後悔もなく生きたとは思いますが、私は正直1日でも長く生きてほしかったです。
■亡くなる前日の食事はファミチキ
――私が叶井さんにお会いしたのは10月でしたが、それ以降、体調の変化はあったのでしょうか。
倉田:12月ごろから、だんだん冗談を言ったり笑ったりする頻度が少なくなりました。体が弱ると、精神的な余裕の部分が削れていくのがわかります。12月半ばから腹水が溜まるようになり、体調が急激に悪くなっていきました。それでも、12月中は毎日のように会社に行き、1月も毎日ではありませんが、何度か会社に行っていましたね。
――体調が悪いとはいえ、驚くべき体力ですね。
倉田:亡くなったのは、自転車に乗れなくなって10日後のことです。私は、もっと体が弱って、何もできなくなってから死が訪れると思っていたのです。しかし、夫は一度も寝たきりになった日はありませんでした。
――叶井さんが亡くなる直前のことを、うかがってもよろしいでしょうか。
倉田:当日の様子は、まだここではっきりと言うのはしんどいものがあります。もう少し時間が必要かな……。それはもう、濃い1日でしたから。自分の頭の中では思い出すけれど、言葉で表現するのは難しいんだよね。
――失礼しました。話せる範囲内で、お答えいただければと思います。
倉田:亡くなる前日、夫は少し家の外を散歩していました。あとは、シャワーを浴びて、ひげを剃って、お風呂に入っていましたが、これらは亡くなる日まで1日も欠かしませんでした。前日に食べたのはファミチキです。タルタルソース入りが食べたいとリクエストされたので、私が買いに行ったんだけれど、あいにく売り切れ。食べさせてあげられなかったのが心残りです。
――死の直前にファミチキを欲するのが叶井さんらしいですが、前日まで普通の日常を送っていたことがわかります。
倉田:おっしゃる通り、前日まではごく普通の日常だったんです。ところが、当日は昼ぐらいから意思疎通が難しくなった。息を引き取ったのは夜中です。目の前で見ていたのですが、顔色がヒュッと変わったような気がしたら次の呼吸がなく、「父ちゃん、息をして」と言ったのですが……。それが、最後にかけた言葉になってしまいました。それでも言葉は最後まであったし、夫らしさは維持できていました。