【連載】速水健朗のこれはニュースではない:オッペンハイマーの家にはなぜキッチンがないのか

オッペンハイマーの家にはなぜキッチンがないのか

 ライター・編集者の速水健朗が時事ネタ、本、映画、音楽について語る人気ポッドキャスト番組『速水健朗のこれはニュースではない』との連動企画として最新回の話題をコラムとしてお届け。

 第6回は、クリストファー・ノーラン監督の最新映画『オッペンハイマー』について。

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家にキッチンがない理由は評伝に

映画『オッペンハイマー』ポスター

 映画『オッペンハイマー』。公開から時間が経った。本筋ではないが気になった箇所について触れてみたい。

 オッペンハイマーの妻が新居にキッチンがないことを指摘する。原爆開発の拠点となった研究施設のロスアラモスに夫婦が越してきた場面でのこと。オッペンハイマーはおどけた感じで「つくらせればいい」と返した。ロスアラモスでは、研究者たちには一戸建ての住居が与えられていた。もちろん、その総責任者であるオッペンハイマーは別格の住宅に住んでいた。

 ちなみにロスアラモスは研究所というよりも、規模としてすでに町だった。当時の研究は機密だったため、その出入りは自由にとはいかなかっただろうが、町には研究者のみならず、軍人やエンジニアたちも集められた。オッペンハイマーがいた時期でも、2年ほどの間にその人口は6000人規模まで膨らんだという。

 砂漠の真ん中に突如、立ち現れた町である。優秀な科学者たちを集めるために、家族ごとの生活の場が与えられ、研究に関わるエンジニアや軍人たちも含めて町が形成された。外部から遮断された空間。実験を行うためには、広大な土地も必要だったろうし、機密が漏れにくくするという意図でもある。オッペンハイマーは、この施設の設立や科学者の選考に関わっただけでなく、住宅の配置にまで意見をした。だからこその「(キッチンは)つくらせればいい」という答えを返すのも当然の立場だった。

 だが、なぜキッチンのない家に住んだのか。オッペンハイマーの評伝『オッペンハイマー』(ハヤカワ文庫NF)にその理由が書かれている。

 オッペンハイマー夫婦の家は、新築ではなかった。元々この地に建っていた家に入居した。米陸軍が接収したこの場所はロスアラモス・ランチ・スクールの土地。中産階級向けのキャンプ教育の場所で、Wikipediaにはない情報だが作家のウィリアム・バローズもここで一時期生活を送っている。アメリカの映画などでは、夏休みをキャンプ学校で過ごす話が出てくるが、そういう施設だったのだろう。

 その校長が建てた家に夫婦は移り住んだ。元々この家に住んでいたのは、アーティストと保母を兼ねていた校長の妹だったという。石造りの暖炉があり庭があり、2つのベッドルームと書斎のある小さいながらも豪華な家。この家にキッチンがないのは、校長の一家は、学校のカフェテリアで一緒に食事をとっていたからだという。謎かけのようだが、理由としてはそれだけのこと。

 ただ、評伝にはオッペンハイマー夫婦のやりとり、つまり「つくらせればいい」のくだりは描かれていない。これは映画の創作だろう。何から何まで抜け目ないように見えるオッペンハイマーだが、新居にキッチンがないことに気が付かない。そういう演出の意図なのだろう。

 砂漠の真ん中に急ごしらえで町がつくられ、町の入り口付近にはバーもつくられていた。西部劇映画のセットを思わせる張りぼての町。このニューメキシコは西部劇の撮影場所としても使われていた場所。監督のクリストファー・ノーランは、原爆開発のために生まれた研究所の姿に映画のロケ現場を重ねる試みをしている。研究の現場では、常に記録用カメラがセットされている。こうしたカメラは、意図的にフレーム内に配置される。もっとも印象的な場面ではオッペンハイマーの後ろにカメラのシルエットが重ねられていた。この場面だけからでも、映画の壮大な試みを見て取ることができる。

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