後藤護が漫画史を「暗黒」に塗りつぶす! 異色の漫画評論本『悪魔のいる漫画史』が放つドス黒い真価

 後藤護。黒眼鏡の暗黒批評家。あらゆる芸術に対する圧倒的な知識を有し、その博覧強記を以て事物を「暗黒」批評する男である。僕からすると、この後藤護という人物は、まさに自分と対極に位置する存在ではないかと思えて仕方がない。誤解を恐れず放言すると、苦手意識を持っている、と言い換えてもいい。申し遅れたが、僕はヒロシニコフという筆名で、ジャンル映画……特に人間が惨たらしく殺害される「ゴア・ムービー(血みどろ映画)」に焦点を当てた映画評を世界の片隅で書いている生き物だ。自分の興味の対象であるゴア・ムービーはまさに「人体の破壊」一点に全振りしたローコンテクスト極まりないものであるがゆえ、これは文字通り、後藤護の言う「暗黒」に対して「明白」なのだ。まさに対極。さて、今回は奇縁に恵まれ、かように正反対な位相(明白)にある僕が、後藤護の新刊である『悪魔のいる漫画史』のレビューを書かせていただく運びとなった。本書は2019年の『ゴシック・カルチャー入門』(Pヴァイン)、2022年の『黒人音楽史 奇想の宇宙』(中央公論新社)に続く、3作目の単著となる。このスパンで3冊。破竹の勢いと言わざるを得ない。

 ゴシック・カルチャー、黒人音楽ときてからの漫画である。後藤護本人が言うように博覧強記の批評とは豊富な知識による「上からの批評」であり、読者もまた相応の知的応戦を強いられる。そのように考えると本書の題材は比較的、取っつきやすいのではなかろうか。取り上げられている作家や作品を見ていただくと、この意見にも頷いていただけるかと思う。楳図かずお、萩尾望都、山岸凉子、古賀新一、日野日出志、丸尾末広、楠本まき、アラン・ムーア、チャールズ・バーンズ、水木しげる、諸星大二郎、高橋葉介、『進撃の巨人』、『ベルセルク』、『チェンソーマン』……。これらの作家や作品のいずれかには、誰しもが触れたことがあるだろう。先に述べたように、後藤護の暗黒批評は著者と読者間の闘争の状況を呈する。だが、この漫画というフィールドにおいてはどうだろうか。日常的に親しみのあるメディアであることを前提とし、90年代からの漫画本研究および再評価(宇田川岳夫氏の活動など)、そして近年のスカム・カルチャーとしてのサルベージ活動(よどみ舎『スラッヂ』など)を含め、漫画を批評する環境は本邦においてメインストリームからアンダーグラウンドまで巨大都市国家のごとく栄え広がっている。取っつきやすい=読者との共通認識が多い、かつ、すでに批評が多くなされているこの漫画というものに、後藤護はどう打って出るのか。

 まず、ド肝を抜かれるのは冒頭の宣言である。「澁澤龍彦がもしマンガを読んだら?」なるテーゼをブチ上げて本書は幕を開ける。そのうえで「日本のマンガを「ゴシック」という高性能な美学的レンズを通して見ていく」と指針を定めている。つまり、後藤護は既に手垢が付きまくっている漫画という題材を全て自分に引き寄せて、ゴシック的解釈を与える、というわけだ。恐ろしく強引だが、かつてない切り口であることは間違いない。また、ゴシックというワードを軸に据えることで、作品ならびに作家の選定が明快なものとなる。著者本人の言だが「ゴシックとは美醜の対立」である。それならば、日野日出志と山岸凉子が同書内に並列されることにも納得がゆく。どちらが欠けても本書は成立しないのだ。前述したように、サブカルチャーの文脈内ではエクストリームな表現を有する漫画の発掘が日夜行われている。それは我々の黒い好奇心を満たす「醜」であるが、そこに胡坐をかかず「美」の要素を書籍内に注入する姿勢に、かつて美を偏重する芸術界に対し「醜」の再評価を訴えたウンベルト・エーコと同様の高邁さを感じさせる。さらに驚かされるのは、独自の批評路線を進みながらも、これまでの漫画研究書を積極的に批評へと取り込んでいることだ。米沢嘉博『戦後怪奇マンガ史』(鉄人文庫)や、内島すみれ『トートロジー考』(北冬書房)など、数多くの書籍が論旨において姿を現す。これは本書の目指すところが既存の漫画研究へのカウンターなどではなく、すべてを包括したうえで新たな漫画評論の系譜を生み出すものである、というスタンスの表出と見える。

 その点を解したうえで本書を読み進めてゆくと、後藤護が「澁澤龍彦のイタコ芸」に終始していないことが分かる。己の手で作品を解体し、それぞれのパーツに意味を見出だし、そして作品の核へと鋭く言及する。これはまさに黒眼鏡の奥に潜む慧眼が光る瞬間である。多くの引用からなる丸尾末広作品に対して、引用の行き先である批評性の有無を「性と暴力の廃墟に響き渡るのは、作者の乾いた哄笑だけである」と評し、同様に引用の集積である『チェンソーマン』に対しては「超偏愛的パスティーシュが溢れかえっただけの「ゴミのカーニヴァル」だとも言える」と断じてみせる。その辣腕に読んでいて黄色い声をあげそうになったほどだ。もちろん、これはほんの一例であり、本書の中には取り上げられている作家や作品の本質を看破する記述が数多くなされている。これはまさに後藤護オリジナルの視点であり、他の追随を許さない批評眼の顕現以外の何物でもない。

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