【山岸凉子を読むVol.1】夜に読むのは厳禁、残暑でも凍りつくトラウマ級の怪奇ホラー漫画3選
1969年のデビューから現在まで、少女漫画界に新しい風を吹き込み続ける漫画家·山岸凉子。日本や海外の神話、歴史上の人物、バレエなど彼女が取り扱う題材は幅広く、ホラー漫画の鬼才としての顔も持っている。すべての山岸作品を読みつくしている私でも、ホラー漫画は何度読んでも震え上がってしまう。
この記事ではホラーの中でも突出したトラウマ作品を3つ選ぶ。ただ「選びきれない」と感じた私は、漫画を選ぶ際に条件を課した。
除外したのは古代や中世、神話の世界を描いた作品、海外が舞台の作品、人間の怖さを描いた作品、ノンフィクション、長編漫画、「毒親」が中心となる漫画だ。「どうしても入れたい」というものもあったが、中には今後の記事で触れる可能性が高い漫画も多く、この記事では見送った。
つまり現代日本が舞台の「怪奇ホラー漫画」に絞り込んだのである。それでも複数の漫画が頭に浮かんでしまったが、私が読んで眠れなくなった漫画を選んで紹介したい。
9月とはいえ暑い日もある。涼しくなりたいと思ったら、ぜひ手に取ってほしい。
化野の…
「化野」は「あだしの」と呼ぶ。日が暮れる町で、会社を出た若い女性が、いつまで経っても、どんなに歩いても家に辿り着けず、途中で何人もの奇妙な人々に出会うというストーリーだ。
たとえば、いつのまにか隣にいた華やかな外見の女性は、突然子供時代のことを話し始める。次に会ったセーラー服の少女は病院の地下室の話を始めたはずなのに、話の着地点が的を射ない。最後に会う草むらで何かをしている中年の女性の言動や行動は、狂気すら感じさせる。
主人公と別れる前、少女が振り返った時の表情を見てほしい。その瞬間、私は自分のいる世界にまで違和感を抱くようになってしまった。いったい主人公の女性はどうなるのか。ぜひ結末まで見届けてほしいのだが、気になるのは「化野の…」のタイトルの意味である。
私の持っている本作が収録された短編集(『ブルー・ロージス』/山岸凉子/文藝春秋)では、始まりのページに十二単を着た女性が描かれている。
このタイトルは徒然草の「あだし野の露消ゆる時なく」の「あだし野」を指している可能性が高い。恐らく本作を読み解くヒントはここに含まれているので、主人公が迷いこんだ世界は何なのか、以下をもとに読む人それぞれで想像してほしい。
以下が原文と現代語訳である。
原文:
あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つるならひならば、いかにもののあはれなからん。
世は定めなきこそ、いみじけれ。現代語訳:
あだし野の露が消えることなく、鳥部山の煙が立ち去らないように、もし(人が)永遠に住む運命ならば、どれほどもの悲しいことか。世の中は不確かなものだから、本当に驚くべきことだ。
汐の声
山岸凉子の怪奇ホラーは「和」を強く感じさせるものが多い。本作もそのひとつで、主人公は、霊感少女として芸能界で有名な17歳の佐和である。
ある意味、この漫画も毒親が登場していて、彼らは、本当は霊感のない娘の佐和を使って収入を得ている。佐和は乗り気ではないのだが、気の弱い性格で両親に逆らえない。
そのせいでオカルト特集のゲストとして、取材班やほかの霊能力者とともに死んだ母子の霊が出るという無人の屋敷へ行くオファーが来た時、両親が引き受けてしまった。
霊感のないはずの佐和は、初日から女の子の霊を見るようになる。
時と共にこの女の子の霊がどんどんと生々しくなり、佐和は懸命に取材陣に訴えるが、だれも彼女のことをインチキだと誤解して信じてくれない。
女の子の霊の正体と、佐和が迎える結末はぜひ実際に読んでほしい。
この記事ではサイコホラーではなく怪奇ホラーを扱うと書いたが、本作はその両方の側面を持っているように思う。
まず佐和の親だ。怯えると「ママ」と母親に助けを求めるのは17歳の少女なら不思議ではないが、本作は佐和が母の作った弁当を食べる描写がある。彼女は偏食家でもあり、母親が佐和を利用する一方で過保護に育てていることを示唆している。
そして取材陣の大人たちも佐和を噓つきだと信じ込んでいる。佐和が恐怖で怯える姿を演技だと誤解して撮影までしていて、彼女の恐怖を理解しようともしない。彼らが佐和を信じていれば、本作の展開は大きく変わっただろう。彼らはきっと、佐和の訴えを無視したことを忘れ、のうのうと生きていく。
『化野の…』と同様に、主人公に罪はない。それなのに悲劇に見舞われる理不尽さを、容赦なく山岸凉子は描く。