『チェンソーマン』藤本タツキの名作群を読み解く方法 最大のキーワードは「映画」だった

藤本タツキ『さよなら絵梨』(集英社)

※本稿では、藤本タツキ作『ファイアパンチ』、『チェンソーマン』、『ルックバック』、『さよなら絵梨』(いずれも集英社刊)のネタバレを含みます。各作品を未読の方はご注意ください。(筆者)

 『ファイアパンチ』、『チェンソーマン』、『ルックバック』、そして、『さよなら絵梨』――。数々の傑作漫画を世に送り続けている藤本タツキだが、そんな彼の作品を繙(ひもと)くための最大のキーワードが、「映画」であると私は常々思っている。

 といってもそれは別に、『さよなら絵梨』がスマホで撮影した動画に見立てた枠組(コマ割り)で描かれている、とか、『チェンソーマン』のバトルシーンが巧みなモンタージュによって構成されている、とか、そういう絵的(えてき)なテクニック――すなわち、漫画の「映画的手法」についていっているのではない。私が本稿であらためて考えてみたいのは、藤本タツキの漫画の中で、「映画」という存在が、主人公の成長を描く上でいかなる機能を果たしているのか、についてである。

「糞映画」のない世界が本当に「良い世界」なのか

 たとえば『チェンソーマン』の第5巻で、主人公・デンジとヒロイン・マキマのこんなやり取りが描かれている。なお、2人はこの会話の前に、「デート」と称して、日が暮れるまで「映画館をハシゴして(映画を)見まく」っている。

マキマ「次が最後。難しくてよくわからないって評判の映画なんだけど…。デンジ君は見る?」
デンジ「…正直、今んトコ全部微妙です…。オレ、映画とかわかんないのかも」
マキマ「私も十本に一本くらいしか、面白い映画には出会えないよ。でも、その一本に人生を変えられた事があるんだ」〜『チェンソーマン』藤本タツキ(第5巻/集英社)より〜

 このあと、2人は最後に訪れた深夜のガラガラの映画館で、その「難しくてよくわからないって評判の映画」のある場面を観て、同じタイミングで涙を流す。つまり、この時点では彼らは同じ方向を向いているわけだが、マキマが本性を露(あらわ)にした第一部のクライマックス(第11巻)では、敵対する間柄になっており、こんな会話を交わすことになる。

デンジ「マキマさん。アンタの作る最高に超良い世界にゃあ、糞映画はあるかい?」(中略)
マキマ「私は…面白くない映画はなくなった方がいいと思いますが」
デンジ「うーん…。じゃ、やっぱ殺すしかねーな」〜『チェンソーマン』藤本タツキ(第11巻/集英社)より〜

 この場面は、派手なバトルの前に、あまりにもさりげなく挿入されているため、見落としている人も少なくないかもしれないが、実はここで交わされている会話はかなり重要である。具体的にいえば、理想の世界を作ろうとしているマキマに対し、デンジは、「アンタ」の世界では「糞映画」――すなわち、“糞みたいな人間”は認められるのか、と問うているのである。そして、それは「なくなった方がいい」と答えたマキマに対し、デンジは「殺すしか」ない、といっているのである。彼にとって彼女は、いわば「人生を変えられた一本」であるにもかかわらず、だ。

 そう、こうしたやり取りのいくつかから、藤本タツキが「映画」を「人生」に例えている――さらにいえば、どんな糞みたいな人生や面白くない人生にも意味がある、と考えているということがよくわかるだろう。

 ちなみに藤本作品で「映画と人生」といえば、むしろこの『チェンソーマン』よりも、初期の『ファイアパンチ』を思い浮かべる人の方が多いかもしれない。

「映画」の中では「過去」が「いま」である

 藤本タツキの初の長編連載作となった『ファイアパンチ』は、ドマという名の「祝福者」(能力者)が放った“消えない炎”によって、愛する妹を殺された少年・アグニの復讐劇だ。生まれながらの強い「再生能力」を持っていたアグニは、妹のようにドマの炎を受けても死ぬことはなかったが、その代わり、四六時中“消えない炎”に身を焼かれながら、生きていかねばならなくなる……。

 近親相姦、カニバリズム、残酷な人体損傷、過激な暴力表現、常に主人公は全裸――といった具合に、同作は数々の「少年漫画のタブー」に挑んだ問題作であり、一応は前述のようにアグニという少年(後に青年)の復讐劇として描かれてはいるのだが、ある意味では、“完成することのない映画を撮影した人々の物語”としても読めるように作られている。

 『ファイアパンチ』の第2巻で、ドマへの復讐に失敗したアグニは、トガタという謎の女と出会う。トガタは失われた文化の1つである「映画」というメディアに魅せられているのだが、家に遺されていたそのデータがすべて燃やされてしまったため、自らの手でオリジナルの作品を撮影しようと考えているのだ。主人公はもちろん、全身炎に包まれた死なない青年・アグニだ。

 ドマを殺すための技を教える代わりに、「それまでを撮影させて」というトガタに対し、アグニはこう答える。「俺は主人公になる……」

 そこから先は、善と悪の境界線が曖昧になっていき、物語はより複雑な様相を呈していく。妹と瓜二つの女、ユダとの奇妙な関係。物語の序盤からすでに“ラスボス感”を失っているドマ……。アグニは、行く先々で自らの存在に苦悩しながら、それでもなお生きていこうとする。生きること。それが、妹の最後の願いでもあったから。そして、トガタという「監督」の前で、「素顔」を晒しながら「演技」を続ける。

 これもまた、「人生」であるといえはしないだろうか。そう、アグニのような壮絶な経験をしている人は少ないだろうが、それでも誰もが本音と演技を繰り返しながら、日々を暮らしているのである。

 ある時、「人は死んだらどこに行く?」と訊いてきたアグニに、トガタはこう答える。「映画館」――と(第4巻)。

 実際、物語の終盤、アグニは、映画館の中で1人、かつて炎に包まれていた頃の自分の映像を観ることになる。その時のアグニは、ある事情があって、自分がアグニであることをすっかり忘れてしまっているのだが、燃え続ける男の映像を観て“何か”を感じとる。

 果たしてこれはどういうことなのか。大切な者を失い、殺し、殺され続けた血まみれの人生に意味があったということだろうか。たぶんそうだろう。作中で、アグニは、妹ともう1人、別の人物からも「生きて…」という願いを託されている。そんな彼が死ぬということは、その2人の人生も一緒にこの世から消えてしまうことを意味している。

 そう、極論をいえば、大切な人たちとの思い出、あるいは自らの初期衝動を忘れないために、人は「映画」と向き合うのである。あらためていうまでもなく、「映画」の中では、死んだ人間も、若い頃の想いも、生き続けている。スクリーンに映っていないものが映っている場合さえある。「映画」の中では、「過去」が「いま」なのだ。だから残された人はそれを見て、“大切なもの”を忘れないための覚悟を決め、再び1歩、前に踏み出すことができるのである。

 そして、そのことがより明確な形で描かれているのが、『ルックバック』と『さよなら絵梨』という2本の読切作品だといえるかもしれない。

『さよなら絵梨』のラストで主人公が視たものとは

 『さよなら絵梨』は、2022年、漫画誌アプリ「少年ジャンプ+」にて一挙掲載された読切作品である(全200ページ)。同作は、前述のように、ほぼすべてのコマがスマホで撮影した動画の画面に見立てられており(一部、あえて効果的に大きさを変えているコマもあるが)、まさに、「漫画」のフォーマットで「映画」を表現した意欲作だといえるだろう。

 主人公は、伊藤優太。死にゆく母を撮影したドキュメンタリー映画を文化祭で上映するも、最後に意味不明な爆発シーンを挿入したことで、観た者たちから酷評を受けた中学生だ。その「中学生活すべてをかけて作った作品」を否定された優太は、自殺を決意するが、飛び降りようとした病院の屋上で、謎めいた少女と出会う。

 少女の名は、絵梨。数少ない優太の映画の理解者である彼女はいう。「もう1回、映画を作って!」。そして、来年の文化祭でそれを上映し、「今度こそ、全員、ブチ泣かせてやらない?」

 その後、優太は絵梨と2人で膨大な数の映画のDVDを観て(これは先に触れたデンジとマキマの「デート」の再現かもしれない)、オリジナルの物語のプロット作成に取りかかり、やがて撮影に入る。主演女優はもちろん絵梨だ。

 そこから物語はメタな展開を見せ、どこまでが現実でどこまでがファンタジーなのか――いや、どこまでが現実でどこまでが「映画」なのか、まったくわからなくなる(そして、ある意味ではその境い目はわからないまま、物語は二転三転したのち幕を閉じる)。

 凄い物語だ。ちなみに本作でも、『ファイアパンチ』同様、主人公は最後に「映画」を視(み)ることになる。しかし、それはスクリーンに映し出された平面の映像ではなく、人間の形をした幻か現実かわからないヴィジョンだった(わかりにくい例えかもしれないが、本稿ではそういうヴィジョンもまた、広義の「映画」としてとらえているのだとお考えいただきたい)。

 くたびれた大人に成長した中年の優太と、中学時代に死んだはずの絵梨――そう、彼女は優太の映画の撮影中に、病気で死んだのだ――が、かつて2人で膨大な映画を観た廃墟の1室で、再会するのである。当然、絵梨は、あの頃の姿のままだ。

 なんと本物の「吸血鬼」である絵梨は、一度死んだが甦り、優太が撮った映画を観て、“かつての自分”がどういう人間だったのかを学習したのだという。「映画みたいな話だね…。(中略)周りの人は、みんな絵梨より先に死んでしまう…。親も恋人も友人もみんな先に死ぬんだ。そんな人生に絶望しないか」という優太に彼女はこう答える。

「でも、大丈夫。私にはこの映画があるから。見る度に貴方に会える…。私が何度、貴方を忘れても、何度でもまた思い出す。それって、素敵な事じゃない?」〜『さよなら絵梨』藤本タツキ(集英社)より〜

 たしかに、「素敵」だ。これこそが、先ほども述べたように、「映画」というメディアが持つ最大の“魔法”だといってもいいだろう。

 ちなみに優太が再会した絵梨は幻なのか、そうではないのか、あるいは、彼女がいうように本当に吸血鬼なのか、それは同作を最後まで読んでもわからない。しかし、(幻だったにせよ、現実だったにせよ)“彼女”との再会の後、優太は――実はこの時も、彼は自殺を決意していたのだが――また元のリアルな世界へと足を踏み出していくのだ。

 ラストの見開きで描かれているある場面を見て、この漫画を壮大なギャグであると考える向きもおられるかもしれないが、私はそうではなく、いったん死を覚悟した者が、「映画」(=初恋の女性のヴィジョン)を観ることで再び生きる活力を得た物語だと思っている。そしてそれと同様の展開は、2021年に発表された傑作、『ルックバック』からも見てとることができるだろう。

“大切なもの”を忘れないために人は「映画」を観る

 『ルックバック』は2人の“絵を描く女性”の物語だ。主人公の名は、「藤野」。藤野は、小学生の頃、学年新聞に4コマ漫画を連載して、クラス内で人気を博していた。ところがある時、同じ紙面で、不登校の隣の組の生徒「京本」の4コマ漫画の連載も始まり、それを見た瞬間、衝撃を受ける。京本が描くリアリズムの絵に、圧倒されたのだ。

 やがて2人はコンビを組み、13歳の時、新人賞を受賞して漫画家「藤野キョウ」としてプロデビューするのだが、突然――というのは藤野にとっての話だが――別れが訪れる。「もっと絵が上手くなりたい」と考えている京本は、美大に進学して絵画を専門的に学びたい(さらにいえば、「一人の力で生きてみたい」)というのだ。

 そこから先は、画面が暗転するため何が起こったのかは正確にはわからないが、おそらく藤野は渋々了承し、コンビは解消する。しかしそれは、“本当の別れ”ではなかった。

 この後、2人の間に何が起きるのかは、ここでは書かない。しかし、藤野は、2度と京本と会うことはできなくなる。もし、あの時、自分が彼女を引きこもりの部屋から「外」へ連れ出さなければ……。主(あるじ)を失った京本の部屋の扉の前で、藤野は後悔し、苦悩する。そして、彼女はそこで“ありえたかもしれない別の世界”を幻視するのだ。

 このヴィジョンもまた、藤本作品においては、「映画」なのだと私は思いたい。その「映画」の世界では、京本は別の人生を歩み、藤野とは違う形で絵描きとしての高みを目指し続けるだろう。そして、一方の現実世界では、藤野が忘れない限りは、京本の存在は、あるいは、京本が描いた初期の「藤野キョウ」作品の背景画は、この先も生き続けることだろう(誤読かもしれないが、その仮想世界と現実世界を接続するような「ひとつまみのファンタジー」も描写されており、それが物語になんともいえない“深み”を与えている)。

 いずれにせよ、繰り返しになるが、藤本タツキの漫画における「映画」とは、自分の人生や大切な人との思い出を再認識するための装置だといっていい。だからこそ、挫けそうになった時にそれ(=「映画」)を見た主人公たちは、再び前へと歩み出すことができるのではないだろうか。

[付記]本稿では、読みやすさを優先し、引用した漫画の台詞の一部に句読点を打ち、改行部分を詰めています。ご了承ください。(筆者)

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