『釣りキチ三平』漫画家・矢口高雄を偲ぶ 妻・勝美との絆であった「ロレックス」物語

矢口高雄は服装や持ち物に無頓着!?

――矢口先生はモノにはこだわりはあったのでしょうか。

勝美:いろいろと替えたりするのが大嫌いで、ひとつのものをずっと使う人でした。この時計をずっと着けていたのは、替えるのがめんどくさいからなんじゃないですか(笑)?

――いえいえ、お気に入りだったんだと思いますよ。奥さんの愛を感じ取っていたんだと思います。

勝美:そうだといいですけれどね(笑)。でも、夫は本当にブランド品にはまったく興味なくて、服も量販店で買っていましたね。ただ、40歳の時に免許をとって、当時は『釣りキチ三平』がヒットして、まとまったお金が入ったんです。その時、夫はベンツを買うつもりで出かけていったことがありました。私はベンツって、なんのことなのかわからなかったけれどね(笑)。

職務質問されて三平を描いたらようやく解放されたことも

――そして、矢口先生はベンツを買ったわけですね。

勝美:いえ、ベンツをやめて、ジャガーを買ってきたんです。クルマ屋さんに「恐れ入りますが、お客様に合う車はありません」と言われて、やめたらしいんですね。というのも、夫は本当に服装にもこだわりがなかったので、とてもお金を持っている人には見えなかったのでしょう。

――ええ~っ!? そのディーラー、ぜんぜん人を見る目がないですね……

勝美:この家を買う時にも、不動産屋が夫の身なりを見て、「あいにく、販売できる物件はないですね」と言ったくらいですからね。あと、漫画のアイデアを考えようと、徹夜明けに髪の毛がぼさぼさな状態で田園調布の住宅街を歩いていたら、おまわりさんに職務質問されたことがあったんです。

――相当、不審者に見える格好だったんですかね……?

勝美:1週間くらい風呂にも入らず、髪も洗っていなくてフケだらけ、Tシャツ、短パン、目が充血した状態で歩いていたみたいですね。しかも、手ぶらだったので、おまわりさんに「漫画家の矢口高雄です」と言っても信じてもらえない。そこで、紙とペンを借りて三平の絵を描いたら、おまわりさんは感動して解放してくれたそうです(笑)。

矢口高雄はとにかく漫画を描くことが好きで好きでたまらなかった。数々の名作を生み出した仕事机は、現在も自宅に保存されている。
『釣りキチ三平』最終回を収録した『週刊少年マガジン』。足掛け10年、単行本が65巻まで発売される、当時としては異例の長期連載になった。矢口は銀行マンを辞し、逆境の中での船出となったが、漫画家として見事に成功を収めたといえる。そして、勝美は連載で多忙な矢口をサポートし続けたのである。

ロレックスは二人三脚で歩んだ絆の象徴

 矢口夫妻は銀行員時代に出会って結婚し、順風満帆なサラリーマン生活を過ごしていた。しかし、矢口は白土三平の『カムイ伝』に出合ったことで、一度は忘れかけていた漫画への情熱が蘇る。周囲の反対を押し切り、銀行に辞表を出して上京した。

 筆者も同じ秋田県出身なのでわかるが、銀行員は地方では超エリートの職種である。ましてや、1970年代であれば、一生が保障された仕事として認知されていたことだろう。しかし、漫画家を目指すとなれば、安定した暮らしはなくなる。成功するかどうかもやってみなければわからない。壮大なギャンブルだった。働き盛りの30歳で辞表を出すことが、どれほど勇気のいる決断だったか、想像に難くない。

 それでも、勝美は矢口に理解を示し、挑戦を後押しした。対して、家族や親戚からは猛反発を受けた。まだまだ漫画家という職業が評価されていなかった時代である。「嫁のお前がしっかりしていないから、高雄は銀行をやめたんだ」と、中傷されることもあった。

 それでも耐えることができたのは、なぜか。「私はこの人の絵が好きだったし、ここまで漫画をやりたいと言うのなら、信じてみようと思ったからね」と、勝美は言う。記念に贈られたデイトジャストは、どんな辛い時も二人三脚で歩んできた夫婦の絆の証しなのである。

矢口高雄のロレックス。デイトジャストの定番といえるシャンパンゴールドの文字盤で、イエローゴールドとステンレスを組み合わせた華やかな時計である。

世代を超えて受け継げる機械式時計

 矢口高雄は2020年に81歳で亡くなった。その後は形見として、勝美が使用している。将来的には、娘の夫に譲る予定だそうだ。ロレックスはしばし、世代を超えて受け継げる腕時計といわれ、愛用者が多い。まさにそれを体現しているといえるし、ひとつの腕時計に込められた思いを聞いて感極まるものがあった。

 矢口が愛用したロレックスの実物を見せていただいた。ベゼルやケースにも細かい傷があり、使い込まれた跡が見受けられる。しかし、この傷もまたこの腕時計の勲章であろう。矢口はこの腕時計をいつも腕にはめて、漫画を描いていた。数々の名作が生まれる場に立ち合った腕時計と考えると、まさに唯一無二の名品といっていい。

色紙に筆を使いイラストを描く生前の矢口高雄 写真提供=次女かおる

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