Chim↑Pom卯城竜太が問う「アクション」の現在 大著『活動芸術論』の「ダーク」で「ディープ」な魅力に迫る

Chim↑Pom卯城竜太インタビュー

大正時代のクールなユーモア

――ユーモアのことについてもお聞きしたいんですが、『活動芸術論』の該当箇所を一度読み上げます。「楽しいなどと言ってられないほどにシリアスの一途を辿る世界情勢において、ガチなアクティヴィズムが実質的な世界に交渉しようという中で、アーティヴィズムはその魂だったユーモアを失ったというのが実情である」。これは現状認識としてその通りで、Chim↑Pomの「気合100連発」が炎上してしまった状況とも繋がります。被災して、どん底にいる福島の若者が放った「放射能最高!」という言葉が、戦後闇市の活力的なユーモアとして理解されなかった。際どいユーモアが通用しない時代ですが、でもやはり重要であり続けていると思うのですがいかがでしょう。

卯城:Chim↑Pomにとってユーモアは欠かせないというか、それがなくなったらやる意味もないと思うんですよ。だけど、例えばあるメンバーなんかは「いまChim↑Pomが出て来たらYouTuberになってるかもしれないね」と。僕もそんな気がちょっとするんですよ。アートやアクティヴィズムが社会性を強める中で、限界は日に日に強化されながらも個人責任のコンテンツにはユーモアが保てている。ダメだったらバンされておしまいなだけですから。いまのアートは公金も使うし、芸術祭とか美術館とか公共的な活動を強めている。だからユーモアについて説明しなきゃいけなくなっちゃたりとか。お笑いでいったら、一番最悪じゃないですか(笑)。

――(笑)。ぼくは例の「気合100連発」見て、鯰絵を思い出しました。あれは江戸で安政の大地震が起きた時に、お上の検閲なしに勝手に出回った錦絵で、「わーい鯰が大地震起こしたぞ。世直しじゃ、世直しじゃ」って不謹慎な内容が、ふざけた大鯰を中心に描かれてます。地震で大量の人が死んでいるから不謹慎なんだけど、そのカラっとしたユーモアがどん底の江戸庶民にとってリアルだったと思うんですよ。だから、「気合100連発」を批判した人たちはアウェハントの『鯰絵』読んでないんじゃないかな。ぼくが鯰絵を持ち出したのは、卯城さんが大正時代に反応するのも、なにかあの時代のアーティストにしかない独特のユーモアに反応した部分があるような気がしたからです。ゆるふわというか、ローファイなユーモアというか。

卯城:本のなかで望月桂さんって人の名前を出してるんですけど、周りはアナーキストの大杉栄とか、他にも時代的にテロリストになった人もいたんですけど、とにかく彼の活動が気になったんですよ。60年代のダダイズムとかに比べて、大正は状況が最悪なんです。大杉栄は殺されちゃうし、関東大震災は起きるし、大逆事件もあったり。で、戦争に入っていく中で、そのうちユーモアも消える。そういう時代に、望月桂はすごい冷静なんですよね。それが見てて面白くて、獄中で死んだ同志の遺体を引き取ってきて、遺灰を自分の庭に埋めて、植物を育てて、咲いた花を押し花にして、「あの世からの花」って書いて、また同志に送り付けるとか。社会的なものよりアートが個人的な営みに入っていってるんですよ。

 同じく望月桂を中心とする黒曜会がやったグループ展があって、警察に押収されちゃったりする作品がたくさん出てくるんですが、それに対して盗難届を出すという(笑)。ユーモアがあるし、冷静だし、怒ってデモするとかよりナンセンスに徹してるんですね。それに対して60年代とかは、正直言ってやりたい放題やれたと思うんですよ。そんなエクストリームな人たちが出て来ることを世の中も望んでいたし、戦後民主主義というものがまだ機能していた時代だったんで、今とは全然違うなという認識があって。今ならどういう風にユーモアが通じるかとか、どういう風な活動をしなきゃいけないかとか考えていた時に、望月桂がやった「あの世からの花」のようなものにリアリティがわく。「ダークアンデパンダン」(真理を追求する過程でうまれた、人には見せられない産物を集めたクローズドな展示。アーティストが自由に出品できるウェブ版と、キュレーションされたリアルな会場の二つの場が設けられた)に繋がっていきました。

ダークアンデパンダン――隠れキリシタンからダークウェブまで貫く「闇の精神史」

――「ダークアンデパンダン」の話がいよいよ出ましたね。驚いたのは「ダーク」の定義です。「ダークは孤独による真理の追求だ」、「大衆と観客を分けるためにダークを使う」。この観客を選ぶという発想がおもしろいなと。卯城さんくらいメディアに露出している人が、敢えて閉じるということに意味を感じました。

卯城:「ダークアンデパンダン」はChim↑Pomとは別に僕が周りの作家とたちと始めたものです。だから、Chim↑Pomにはそれほど「ダークアンデパンダン」的な要素はないと思うんですよ。Chim↑Pomは公共に対して異物をぶつけていくのが真骨頂なコレクティヴだと思うんですけど、それを続けていく中で方法論的に限界があるなと思ったときに、「ダークアンデパンダン」に向っていったんですよね。そのとき秘密結社のことも考えたし、色々な事例を考えたんですよ。お客さんを選ぶっていうのは特権的かなと最初考えたんですけど、色々と調べていくうちに、やはり秘密結社とかとは違うんだよなと認識するようになりました。例えばソ連時代に公式美術って概念があって、すると非公式にやっている人たちは表でできないので、秘密に誘い合って、電車に乗って現場へ向かうというツアー込みで「非公式芸術」といって流行りました。それは後々評価されてるんですが、何より「観せるために作る」ものが全てじゃないじゃないですか。特に一般に向けてということは気にする必要はないし、過激な作品がそこでバンされる時代なら、その当事者であるキュレーターのような人たちには、尚のことそれをクローズドな場ででも直視する義務がある。

 例えば『モナ・リザ』もそういう超個人的なものでしたよね。ダ・ヴィンチはあの絵を個人的な営みとして自分の手元におき続けた。でも、今では世界の宝として公共化されてるじゃないですか。だから、まずは個人が信じている真理を追究するってことは、雑巾の捻れのようにいつか真逆にある公に接続されることでもある。なのに、発表ありきが当然となっている今、一番最初に発表する場所のコンプライアンスに合わせて作ったりするじゃないですか。ご存じの通り、『モナ・リザ』だって色々なところを転々としながらルーヴルにあるわけで、もはや観客は、一回目の発表の場の観客だけではない。音楽も同じで、色んな時代や国の人に聴かれ続けていく。文化にはそういう運命があるから、まずは自分の信じていることを追求して作ろうとするならば、発表の場をいまは閉ざす必要もあると思ったんですよ。そこで観れる人が絞られているくことがクローズドでも、特権うんぬん関係なく人類全体がそれを鑑賞出来るようになる時があれば、それはオープンな営みなわけです。変に器用に現在のコンプライアンスに合わせて作っても、価値観が変わったあとの未来にまで強度がないと意味はないわけで。

――卯城さんの文章のなかだと、「ダーク」は自分の中の「根」に触れることが往々にしてあると書いてありました。真理追求の過程で、世に出せそうにもない自分のトラウマや思い出したくない過去にも触れるかもしれないが、それがアートの本質である「根」なのだと。その意味では、90年代の悪趣味文化も「ダーク」に触れている部分はある気がする。だけども『公の時代』の中で、卯城さんは悪趣味文化ははっきりと否定なさっていました。なので、「ダークアンデパンダン」はそことは一線を画す何かなのかなと。

卯城:そうですね、一線を画したいですね。「ダーク」って言った時に何を持ってくるか。「ゴスロリは?」「ゴスは?」って言われたら、「ダーク」じゃないでしょと。趣味的にダークなものは沢山あると思うんですよ。でも僕の言っているのは隠れキリシタンとか、信仰的な自身と神のようなものとの向き合い方だったりする。あれは個人じゃなくて集団だったりするけど、今もカタカナで「カクレキリシタン」と書いて宗派のように存在するんですよね。昔は漢字だったけど、それは隠れているときの話で。バレないように貝殻の模様のなかにマリアを見出すとか、地下で活動していた所作が、隠れなくてよくなった後も続いてるんですよ。つまり誰に見せるでもなく作るべきものもあると。でもそれは見せられるようになった後に、大きい何かになるわけだから。

 それと「根」の部分に関して言うと、アーティストたちに話をしていったら、多くのアーティストたちがそういう作品を隠し持ってるんですよ。写真家の志賀理江子さんに言われたのは、「それを作品だと言ってしまったら、私はアーティストをやめなくてはいけなくなる」と。倫理的にはそうなんだけど、でも、「撮っちゃう」ことだってあるでしょう。撮らずにはいられないものもあるでしょう。撮るにせよ作るにせよ、それは作品化するためだけではなくて、自分がアーティストでいられるための何かでもあるんですね。その中でどれを見せるかという倫理観は自分で決めなければいけない。それは法律が決めることでもなくて、コンプライアンスが決めることでもなくて、発表の場の雰囲気で決まるものでもなくて、アーティストが自分の倫理観で決めなければいけないことだと思っていて。それを決めるのが「根」だということですかね。

――じゃあ悪趣味文化にないのは「根」をめぐる倫理的な葛藤であり、その倫理的葛藤の中から表出してくるものが「ダークアンデパンダン」のようなもの、ということでしょうか?

卯城:表出……しないものですね。ちょっとは表出すればいいかなと思ったけど、できないものも多くて。ダークの中のダークの中のダークの中の……とめちゃくちゃ深みに入って行って(笑)。地中にある植物の根のイメージですよね。その根があるから表出してくる木や芽があって、その表出した部分が作品として公表されているものだと思うんですよ。人々はその葉っぱとか幹しか見えない。だけど、本当は根に重要なものがあって、その根は個別のものなんだけど、「アート」という地中を介して互いに通じ合って、理解し合えちゃうというか。それが「ダークアンデパンダン」でしたね。

――根っこにあるものを見せないまでも、どう感じさせるかがやはりポイントだと思うんですよ。エクストリーム過ぎて直接的には見せられないものを、「ダークアンデパンダン」のように、選び抜かれた観客にだけ見せる閉じたやり方もある。一方で、その根っこの部分を一般大衆の目に触れさせちゃうんだけど、暗号化したり、隠喩化したり、曖昧化したりして、その本質は分かる人にだけ分かるように仕向けるやり方もあると思います。

卯城:メタファーとか抽象化とか、アートはいま基本そういう向きが強くなっていると思いますよ。直接的な表現というよりも、それをくるんでとか。Chim↑Pomもそういうことをやらないわけではないし。僕だけでなく、アートというのは基本そういうところがあると思います。僕が言っている「ダーク」は、インターネットのダークウェブに関連があります。他に表層ウェブがあって、ディープウェブがあって、その三つの世界の中で、表層でやるときには表層に通じる技術が必要だと思っていて、つまり一般の人たちが見ている中でどうやって成立させるか、ですね。例えば、森美術館でChim↑Pom展をやるのとかは、そういう場での営みです。ただ、表層だけが、一般に向けてのものだけが公共的なものではない。さっきのモナリザや非公式芸術と同じ話ですが、クローズドなものが公共を作ることもあるのがアートの特徴です。ディープウェブとかダークウェブとかの構造が出て来ることの意味は、その「もう一つの公共をオルタナティブに作ってしまおう」ということにこそある。現実世界に対してインターネット空間が出来た経緯と同じです。

――「ダーク」に通じる回路を、表層にちょっと出しておきたいというか。そこから気づいた人だけが潜っていけるみたいなアートがあっていいんじゃないかなと。

卯城:それは本当にそう思います。いまインタビューを受けているこのホワイトハウスのようにマイクロスペースは増えてるんですけど、積極的に情報をリリースしてはいないんですよね。でも場所がそこにあるということくらいは、皆知ってるんですよ。『活動芸術論』でマシュー・バーニーのことを少し書いていて、Googleマップで「マシュー・バーニーのスタジオこの辺かな?」というのは分かるんですが、そこで何をやっているのかは分からないじゃないですか。情報としてはそこまでなんですよ。それ以上を知るためには友達がいなきゃいけない。ハキム・ベイの『TAZ 一時期的自律ゾーン』(インパクト出版会)にも書いてあるけど、鼠の巣に入り込むようなものだとも思っていて。例えば生えている雑草から、その根っこの方に辿っていくセンスがなきゃいけない。表層にポッと出ている何かはある、噂であったりとか。それに気づけるかどうかは人次第。マシュー・バーニーはそこでやっている狂ったイベントを一切発表しないで、友達だけ呼んでるんですよね。そういうものが面白いと思いますけどね。

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