前田エマ初小説インタビュー「動物になりきれない悲しみと、人間であることのおもしろさ」
モデルとして活動しながら、エッセイ、ラジオパーソナリティ、ペインティング、写真などさまざまな分野で活躍する前田エマ。このたび、自身初となる小説『動物になる日』(ミシマ社)が刊行された。収録されているのは、うどん屋で働くきぬ子が目にするお客さんの姿を通し、生きることや働くことを描く「うどん」と、あらゆるものにフラットなきぬ子の感覚にフォーカスし、その子ども時代を描いた「動物になる日」の2作だ。さまざまな表現方法を持つ前田が小説を書いた理由や、これまでに読んできた本などを聞いた。(小沼理)
ご飯の前ではみんなただの一人の人
――『動物になる日』には表題作と「うどん」という2つの小説が収録されています。「うどん」が初めて書いた小説だったそうですね。
前田:学生時代からずっと飲食店でアルバイトをしているのですが、お客さんを通して見える風景がすごく新鮮でした。ご飯を前にすると他人の生っぽい部分が出てくるというか…。動物っぽい部分というのでしょうか。それがすごく面白かったのと、働くことってささやかなことの繰り返しであり、それがとても尊いことだと感じていたので、この感情をなくしてしまいたくないと思ったことが「うどん」を書く際に大切にしていた気持ちでした。
そもそも書き始めたきっかけは、ミシマ社の編集者の方から「エッセイの連載をしませんか」とご依頼をいただいたんです。うれしかったのですが、「飲食店で働いた経験を書きたい。エッセイじゃなくて小説にしたい」と相談しました。
――なぜ小説がいいと思ったのでしょうか?
前田:6年くらい前、ファッション誌の贈り物特集で「人が贈り物をしたくなるようなテキストを書いてください」と依頼がありました。最初はエッセイを書こうとしたのですが、本当にあったできごとを書けば書くほど、言いたいことからどんどん遠のく感じがして。それなら創作で書いてみようと思いやってみたら、本当に書きたいことに近づけた感じがありました。その時の感動がずっと残っていて、エッセイよりも創作のほうが私はもしかしたら本当に近いことが書けるのかもと思うようになりました。
――「うどん」ではうどん屋で働くきぬ子の視点を通して様々な人が描かれます。淡々と静かに時間が進んでいく様子が印象的でした。
前田:生まれてはじめてご飯を食べるような赤ちゃんも、お年寄りも、名前が知られている有名人も、週3で来ているのに名前を知らないお客さんも、ご飯の前ではみんなただの一人の人でしかない。そのことを書きたかったんです。
それと、名づけて境界線を引くことに、小さな頃から違和感があり、怒りのようなものを覚えていました。私にはダウン症の幼なじみがいて、小さな時はその子と自分の違いなんて何もわからず一緒に遊んでいたけど、大きくなると一緒にいる空間や時間が、大人たちや社会の仕組みによってどんどん分けられていきました。そうするとその幼なじみの存在が自分の生活の中で見えなくなっていく。どうしてこうなってしまったのだろうと思っていました。
人が何かを差別するのって、わからなくて怖いから。自分と違う人の存在が、少しでも自分の心や生活の中に入っていれば、想像できる力があれば、もっと別の気持ちになれるんじゃないか。今の世界はどんどんさまざまなことを見えなくしていくから、みんな怖くなったり、名前を無理やりつけて区別したりしていく。それがすごく怖くて嫌なので、うどん屋の光景を通してそうではない話を書きたかったんです。
同じ生き物なのに、人間だけが仲間はずれ?
――表題作の「動物になる日」は、「うどん」の主人公・きぬ子の幼い頃を描いたお話です。冒頭では、ピアノ教室のベランダの白いフェンスに触れると白い塗料がぺりぺりと剥がれ落ちたり、「金木犀がさわやかなふりをした甘ったるい香りを空気にのせていた」など、感覚的で実感に根ざした描写が続いていました。淡々とした「うどん」とはまた違った作風ですね。
前田:私には弟がいるのですが、彼がこの小説の冒頭を読んだ時に「比喩が多すぎて、この話大丈夫か?と思った」と言われてしまいました(笑)。誰の目も通さず、きぬ子が感じたように世界を見ている小説にしたかったんですよね。
「うどん」の執筆中、なぜきぬ子がこういう大人になったのかをすごく考えていて、彼女の幼少期を書いてみたいと思いました。「うどん」は何度も書き直したけど、「動物になる日」はきぬ子と、きぬ子にとって特別な友人であるユミちゃんが、自由にばーっと駆け抜けて行き、私はそれを楽しい楽しいと言いながら追っていくような感じでした。なので3日くらいで一気に書くことができました。