カズオ・イシグロとロボット研究者・石黒浩、その共通点と差異は? 『クララとお日さま』から考察

カズオ・イシグロとロボット研究者・石黒浩の共通点

イシグロと石黒の差異――生身の人間は上位存在か?

 もちろん、アンドロイドと生前の人物は完全に同一のものではありえない。クララやジョジーの両親はその「違い」を自覚し、ジョジーのかけがえのなさを強く感じる。

 ただこれは「人間と機械だから違う」という話ではない。まったく同じ遺伝子を持った一卵性双生児であっても、後天的な環境要因、経験によって、同じ能力や記憶を持った存在にはなりえない。したがって『わたしを離さないで』のようにクローン人間を作っても、そのクローンは、オリジナルと同じように考え行動する個体にはならない。まったく別々の存在である。

 たんに「違う」のだが、しかし、イシグロ作品ではクローンやアンドロイドは悲哀の対象になる。つまり、劣位に置かれている。人間に対して優位に立つ存在ではなく、脅威にはならない。

 つまり結局のところ、イシグロは保守的である。アンドロイドやクローンは「人間とは何か」を考えさせる存在ではあるものの、生身の人間が上位存在であるという価値観は揺るがない。

 ここがふたりの決定的な相違点だ。

 『最後の講義』などで語っているように、石黒は、有機物であることの制約から解き放たれた無機生命体になるための、過渡的な存在として人間の身体がある、と考える。

 つまり生身の人間が上位で、アンドロイドが下位であるとは考えていない。将来的には意識を持ったアンドロイドこそが上位存在(未来の人類の姿)になる。有機生命体であるがゆえに寿命があり、睡眠しなければならないといった限界を持つ生身の人間は、限界をなくした機械生命体になるための技術開発を懸命にしている存在として位置づけられる。

 これはいわゆるAI・ロボット脅威論とは異なる。人間がAI・ロボットに「なる」のだ。

 言ってみれば、将来的にはクララのようなアンドロイドが棄てられるのではなく、死んだ生身の人間の身体こそが廃棄され、アンドロイド化した人類が子(のような存在の機械)をなし、家族を作ることを夢見ている、と言える。

 カズオ・イシグロは、前作『忘れられた巨人』のほうが読者に対してすぐれた問いかけをし、また、価値転倒を描いていたように思う。『忘れられた巨人』では、為政者が記憶を失わせる霧を発生させることで、覚えていたら深刻な対立に至る勢力同士の関係を保つということを描いていた。戦争や災害の記憶は「忘れてはいけない」と語られることが多いが、忘却にもそれはそれで価値がある、と示していた。

 それと比べると『クララとお日さま』は、型落ちしたアンドロイドが用済みになるまでを描いた物語であって、石黒浩が示すような「アンドロイドのほうが人間よりもほとんどあらゆる点で優れた存在になる日が来る」といった意外な結論には至らない。

 もっとも、それは『わたしを離さないで』も同様であり、そもそもイシグロは価値転倒を第一に置いた作家ではない。最盛期をすぎて終わりゆく、滅びゆくものに寄り添う作品を描く作家である。

 ただないものねだりだとわかったうえで言わせてもらえば、生身の人間を滅びゆくものとして描いてくれたら、ふたりのイシグロ/石黒がシンクロして、おもしろかったように思う。

■飯田一史
取材・調査・執筆業。出版社にてカルチャー誌、小説の編集者を経て独立。コンテンツビジネスや出版産業、ネット文化、最近は児童書市場や読書推進施策に関心がある。著作に『マンガ雑誌は死んだ。で、どうなるの? マンガアプリ以降のマンガビジネス大転換時代』『ウェブ小説の衝撃』など。出版業界紙「新文化」にて「子どもの本が売れる理由 知られざるFACT」(https://www.shinbunka.co.jp/rensai/kodomonohonlog.htm)、小説誌「小説すばる」にウェブ小説時評「書を捨てよ、ウェブへ出よう」連載中。グロービスMBA。

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