殺人犯は結婚に希望を見出しているのか? 『夏目アラタの結婚』に漂う、怖さと愛おしさ

『夏目アラタの結婚』の恐さと愛おしさ

 緻密な心理描写と、目まぐるしい駆け引き――その結婚は、何のためのものなのか。漫画『夏目アラタの結婚』は、先が読めない展開で人気を博している。

 この漫画の核は、主人公・夏目アラタと、死刑囚・品川真珠の結婚をめぐるやり取りだ。真珠が殺害した被害者の遺体の一部は、まだ発見されていない。被害者の息子の少年は、たまたま知っていた児童相談所の職員・アラタの名前を騙って、遺体のありかを探るために刑務所にいる品川真珠と文通を始めた。品川真珠と直接会って確かめてほしいと少年に泣きつかれたアラタは、自分なりの正義を持って、真珠と対峙する。結婚は、彼女に会うため、とっさに口を突いて出た"エサ"だった。

分からないことへの恐怖

 結婚という響きとは裏腹に、アラタと真珠の駆け引きは、非常に緊迫したものだ。互いに知恵を絞り、相手より優位に立とうとする。一言でもぼろを出したら、即座に付け込まれる――そんな恐怖が、手に汗を握らせる。面会室はアクリルで仕切られ、刑務官も立ち会っている。描かれるのは、極めて安全なはずの環境での、言葉による応酬だ。恐怖のポイントは、「真珠が何を考えているか分からない」ところにあるのだろう。彼女が殺人犯であることや、知能が高く、裏をかいてくることだけが恐怖の理由ではない。現段階では、真珠の真意は分からない。さらに、なりゆきとはいえ、主人公のアラタがなぜそこまで入れ込むのかも不可解だ。彼女は自身の目的達成に貪欲だ。だが、肝心の「何が目的なのか」は分からない。だからこそ、彼女のしたたかさとその恐怖が引き立てられる。目的のためなら、手段は選ばないのだ。

 手段を選ばない、というフレーズに、私はある女性のことを思い出した。家庭内での言葉による虐待(モラハラ)の被害女性だ。DVと違い、心を先に殺していく種類の暴力である。女性の証言は、悲惨なものだった。そして恐怖を感じた。それは"加害者"に対してではない。"被害者”が、ずっと笑顔で証言し続けるからだ。私は、彼女に「どうして笑顔で話せるのですか?」と尋ねた。証言は非常に具体的で、妄想だけで構成できるような内容ではない。だが、辛い体験と笑顔がミスマッチで、ある種の疑いを持たざるを得なかった。彼女からの返答はこうだった。「殺されると思えば、人間何でもできるんですよ」――不快感や反抗を示すと、虐待はエスカレートする。生きるために彼女が選んだ手段だったのだろう。

希望が招くもの

 女性が逃げない理由は、シンプルなものだった。彼女は幸せな家庭への希望を捨てていなかったのだ。その実現のためにあらゆる努力をいとわなかった。女性の必死な努力は、私には闇雲で、物悲しく聞こえてしまった。逃げない/逃げられないケースは、身体的な拘束や、弱みなどのネガティブな要素を連想させる。私はたった一人の事例しか知らない。だが、女性が囚われていたのは「希望」そのものだ。

 真珠の行動の裏にも、「希望」のようなものが見え隠れする。アラタが嘘をついていないか試す行動。それは、アラタを信じたいという希望かもしれない。やり方は狡猾で、理解しがたい。互いに裏を読み合う駆け引きは、一見遠回りだ。だが、目的達成への必死さも感じさせる。そして、明らかに不利な展開と分かりながら、逃げないで挑むアラタに対しても、希望を手放せない辛さを感じる。真珠は幼いころから虐待を受けて育った。アラタ自身も施設で育ち、家庭への不信感を露わにしている。周囲に裏切られ続けた人が、一縷の希望を抱いた時、手段やそこにかかるコストは度外視されるのではないだろうか。幸運にも"一般的"と呼ばれるような環境で育った人間には、それはあまりにも現実離れしていて、理解できないものに映る。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「漫画」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる