大江慎也:ザ・ルースターズという色褪せない青春、確かめ続けたい過去 「今井智子 ロックスターと過ごした記憶」Vol.3

大江慎也とザ・ルースターズ

福岡の“精鋭部隊”=ザ・ルースターズ、デビューを掴むまで

 昨年出した拙書『ルースターズの時代 THE ROOSTERS AND THE ROOSTERZ』(シンコーミュージック)の取材の際に、彼がルースターズナンバーを歌い続ける理由を聞いたら、こんな答えが返ってきた。

「自分の中にあって、一番多感な時からずっとやってたから、仕事として。僕の中のザ・ルースターズは消せないですよ」

 大江は福岡県北九州市出身。小学生の時に両親が離婚し、教師だった母親に厳しくも愛情深く育てられた。中学生の頃にギターを弾き始め、同学年の池畑潤二(Dr)と出会う。高校に進むと池畑の誘いでバンド 薔薇族に加わり、南浩二をボーカルとした人間クラブを組んだ。だが自作曲への意欲と自分で歌いたいという思いを持つようになった大江は、人間クラブのメンバーだった花田裕之(Gt)と井上富雄(Ba)に声をかけ、池畑とともにルースターズをスタートさせた。サンハウスの鮎川誠との交流も、この頃から始まったようだ。鮎川の家を訪れてブルースのレコードを聴かせてもらったりしたという。

 ルースターズは地元の音楽仲間が集合離散してバンドを組んだりバラしたりする中で生まれた、いわば精鋭部隊だった。彼らを気に入りサポートしてくれるようになった地元の楽器店のスタジオで連日のように練習を続け、大江の提案でThe Rolling Stonesの初期曲を徹底的にコピーしたとの逸話が有名だ。デモテープをアマチュアコンテストに送ったところ全国大会に出場することになり上京、そこで高評価を得てデビューへの足がかりをつかんだ。最初に彼らに声をかけたのはビクター(現ビクターエンタテインメント)で、その際のスタジオセッションの音源『The Basement Tapes - Studio Session 1980』(ユニバーサルミュージック)が残されているが、ビクターとは契約せず、彼らは日本コロムビアからデビューすることになった。

デビュー期の“気まずい”思い出 めんたいロック隆盛へ

 初めて大江と会ったのは、デビュー直前だった。駆け出しのフリーの音楽ライター兼編集者だった私は、日本コロムビアの宣伝マンから「ウチから今度デビューするバンドを観てほしい」と言われて新宿RUIDOに足を運んだ。その頃の新宿RUIDOは、山下久美子や佐野元春、シャネルズ(のちのラッツ&スター)などが出演して活況を呈しているライブハウスだった。

 ほとんど観客のいないフロアを前に、ルースターズはゴリゴリしたロックンロールを立て続けに演奏した。1stアルバム『THE ROOSTERS』(1980年)のジャケット写真と同じような彼らの大人びたスーツ姿は、当時の若者ファッションとは随分違って見えたし、その硬派なイメージは近寄りがたくもあった。大江に後々聞いたところ、スーツ姿の黒人ブルースマンのイメージだったそうだ。加えて悪童的なイメージを狙ってもいたらしい。そんな様子がなおさら彼らの青臭い色気を際立たせていたように思う。

 終演後にメンバーと話してほしいと言われても気まずい空気だった。正直なところ私は戸惑っていた。今ほど地方の言葉がポピュラーでなかったから博多弁で話す彼らとの会話がよくわからなかったし、どこに話の糸口を見つけたらいいのかもわからなかった。とりあえず、「いつもそういうファッションなんですか」と聞いたら大江が「はい。ロックはツヤつけんと」と答えてくれたのだが、「ツヤつける」とはどういうことか意味がわからなかった。格好つけるということだと知ったのは随分後になってからだ。鋭い目つきで見上げるような彼の雰囲気がThe Doorsのジム・モリスンに似ている気がして、「好きですか?」と聞いてみたが答えはなかったと思う。同席していた音楽評論家の先輩・宮原安春さんが「ボブ・ディランに似ているね」と言ったのが記憶に残っている。出会いはそんな感じだった。

ロージー(2004 Edition) / ザ・ルースターズ

 それから数カ月後に彼らはシングル『ロージー』でデビューする。軽快なスカビートの表題曲は今でも多くのバンドから愛されているが、当時はそれほど話題にならなかった。ただ「九州から面白いバンドが続々登場しているぞ」という噂が流れ始めた。この少し前にザ・ロッカーズがデビューし少々話題になっていたからだ。ルースターズが新宿RUIDOで行ったデビューライブでは全国流通し始めた博多明太子が振る舞われ、“めんたいロック”というワードが生まれた。ロッカーズやルースターズに続いてデビューしたザ・モッズをまとめて“めんたいロック”と呼ぶようになった。シンプルなロックンロールを演奏する熱気たっぷりのロックバンド、それがめんたいロックだった。細野晴臣のプロデュースでアルバム『真空パック』(1979年)をリリースしたシーナ&ザ・ロケッツもその中に括られたけれど、どのバンドも“めんたいロック”と呼ばれることなど良しとしていなかったのは言うまでもない。

 ルースターズは1stアルバム『THE ROOSTERS』に続き『THE ROOSTERS a GO-GO』(1981年6月)をリリース、イギリスから火がついたパブロックの流れを受け継いだようなソリッドなロックンロールで徐々に人気を集めていたが、3rdアルバム『INSANE』(1981年11月)からニューウェイヴやポストパンクの影響を感じさせるスタイルに音楽性が変わっていった。それもあって初期の硬派なイメージが薄らぎ、女性ファンが増えていったのもこの頃だ。石井聰亙(現・岳龍)監督の映画『爆裂都市 BURST CITY』に大江と池畑が出演したことも話題になった。

ルースターズ解散 療養しながらのソロ活動に「満足はできなかった」

 だが大江が精神的に不安定になり始め、ライブでは異様な緊張感が漂うようになった。大江の不調でバンドの活動が不安定になったこともあり池畑がバンドを離れ、次いで井上が離れた。地元に戻り療養中だった大江は、雑誌に自分が脱退したと書かれたのを見て驚いたという。マネジメントかレコード会社が発表したのだと思うが、大江にも他のメンバーにも釈然としない思いが残ったのは想像に難くない。

 そういえば、ライブは結構観ていたのにルースターズ時代の大江にはインタビューをした記憶がない。大江が離れ、花田と下山淳(Gt/Vo)が中心になって活動するようになったルースターズには頻繁に取材するようになり、9thアルバム『PASSENGER』(1987年)のパリ録音に同行取材もした。だが、もともと寡黙な花田がさらに寡黙になりインタビューは苦労したものだ。そしてルースターズは1988年に解散する。解散ライブには大江、池畑、井上もゲストで登場し、久々のオリジナルメンバーでの演奏に観客は大いに湧いた。ライブアルバム『FOUR PIECES LIVE』(1988年)がその時の記録である。

 これと前後して、大江は療養を続けながらも上京し音楽活動を再開する。1987年1月に1stソロアルバム『ROOKIE TONITE』をリリースしたが、後のインタビューでこんなことを言っていた。

「東京に出て来て、(ルースターズを当時マネジメントしていた)スマッシュの人に連絡したら、大江さんルースターズに戻れば良いじゃないですかって言われたけど、何も喋れなかった。花田さんとか連絡先がわからなくて、プロデューサーに連絡したら、ロフトでやるから来ればいいって言われて行って、歌詞カード渡されて読んだだけなのに受けちゃって、じゃCD作るかって。それで3作作ったんです。そんなつもりじゃなかった。でも基本的にCD出したら嬉しいじゃないですか、音楽してたら。嬉しいのはあるけど、何か違うなと思ったけど」(※1)

 彼の言うプロデューサーとは、ルースターズを九州時代からサポートし作品のプロデューサーとして深く関わっていた柏木省三だ。大江のソロも彼のプロデュースで制作されていた。大江がバンドを離れ花田がフロントに立つようになった頃、バンドのマネジメントなどの体制が変わり、柏木はルースターズを離れ、大江をソロアーティストとしてプロデュースするようになった。『ルースターズの時代』のインタビュー時、大江はこう語っていた。「柏木プロデューサーから電話がかかってきて、(一緒に)やりました。音楽をやりたいというのは基本ずっと変わりませんから、どんな形であれやりたいなと。病室で歌詞とかも書いたり。何作が出たけど、あまり個人的に満足はできなかった」

鳴りを潜めた90年代を経て、バンドメンバーとの再会へ

 来日時に共演したジョニー・サンダースとの共作EP『GREAT BIG KISS』(1988年)に加え、1990年までにベスト盤やライブ盤も含め8作のアルバムをリリースしたが、それから2000年頃までは音楽から離れていたようだ。

「病院に入ったり、本買って勉強したりしてましたね。曲とかずっと作ってたんですけど。あとアルバイトして、自分はやっぱり音楽しか向いていないなと思った。中華料理屋で皿洗いとか便所掃除とかしてました」(※2)

 私はこの時期の大江のことは全く知らない。同様に柏木の消息もわからなくなった。『ルースターズの時代』を書くにあたり、柏木の消息を知っていそうな人たちに聞いたのだが、誰も知らなかった。

 ルースターズの名前が再び囁かれるようになったのは『RESPECTABLE ROOSTERS -a tribute to the roosters-』(1999年)がリリースされた頃からだ。若いアーティストによるカバーが新鮮に受け止められ、「C.M.C.」などの楽曲が新たに注目されるきっかけになった。また池畑や井上はセッションプレイヤーとして多くのアーティストのレコーディングやライブに関わり、一目置かれる存在となっていたことも大きい。

C.M.C.(2004 Edition) / ザ・ルースターズ

 また花田もソロとしてコンスタントに活動していたが、花田のソロから派生したROCK'N'ROLL GYPSIESに池畑、井上、下山が顔を揃え、アルバム『ROCK'N'ROLL GYPSIES Ⅰ』(2003年)に大江が歌詞を提供、さらにリリースライブに大江も参加して15年ぶりのオリジナル・ルースターズの再会となった。

 ちなみにルースターズの英語表記は4thアルバム『DIS.』(1983年)までは「THE ROOSTERS」で、5thアルバム『GOOD DREAMS』(1984年)から「THE ROOSTERZ」になる。5作目はベスト盤ともコンピレーションとも言えない変則的な内容で、それゆえバンド表記の変化に意味がありそうに思えるのだが、大江のほんの思いつきだったらしい。

「東北でライヴがあったんです。どこかのホールだったんですけど、僕が東京のアパートメントからいくのに寝坊してしまって、電車1本遅れたんですよ。一人で遅れて行って、ホールに着いたら、ライヴに来てくれたファンの人とかに渡す色紙にサインを書いてくれって言われて。その時にSからZにしたんです。アルファベットの一番最後だし、いいかなと思って。気がついたらレコードになる時に、SからZに変わっていたんです」(※3)

再び大きく動き出したルースターズの物語

 終わったはずのルースターズのストーリーが大きく動いたのは2004年7月30日、『FUJI ROCK FESTIVAL '04』(以下、フジロック)だった。大江、池畑、花田、井上の4人がGREEN STAGEに立ったのだ。そこでオリジナル・ルースターズは正式に“解散”した。このライブにまつわるドキュメンタリー『RE・BIRTH II』を石井聰亙監督が撮影し、ルースターズを愛するスタッフ陣によって集められた音源や映像を網羅したボックスセット『THE ROOSTERS→Z OFFICIAL PERFECT BOX “VIRUS SECURITY”』に収録されている。

 フジロック出演の連絡が来た時を大江はこう振り返る。

「電話がかかってきた時、本当に嬉しかったです。嬉しくて、その当時の彼女と手を取り合って、涙を流して喜びました。最初のリハーサルで僕は、歌えないしギターも弾けなくて。だから練習し直して、やったんですけど。結果的に映像(『RE・BIRTH II』)も残って、みなさんがいいと言ってくれるので嬉しい。あの映像は僕も自分でお酒を飲みながらよく見ます」(※4)

 伝え聞くところでは、最初のリハーサルで4人は曲名など言わずとも誰かが音を出せば演奏を始め、無言のまま何時間も演奏し続けていたそうだ。それはデビュー前の楽器店での練習やビクターでのセッションを連想させる。『RE・BIRTH II』には、そんな空気を感じさせるリハーサル風景が記録されている。

「フジ・ロックの前に、リハーサル・スタジオで会って、“やぁ!”“そうやろ?”って、(以前と)そのまま(笑)。(彼等とは)変わらず繋がってる部分があるから、演奏するとそれが響きあう。長い間に、体に音が入ってるから、演奏するとそれが響きあうわけですよ。感情と言うかセンスと言うか……。それが絶対いい条件なんじゃないかな」(※5)

 “解散”したルースターズだが、この後にイベントなどに3回ほど出演、また2014年のフジロックに再登場した。今のところはそれ以後ルースターズの動きは見られていない。

 ルースターズの復活・解散を経たことと関係あるのかどうかわからないが、次第に大江は体調も回復してきたようで、地元のライブハウスや京都 磔磔、新宿LOFT、高円寺HIGHなどでライブを行うようになった。冒頭に書いたように最近はShinya Oe & Super Birdsとしてステージに立つ。メンバーはルースターズをこよなく愛すヤマジカズヒデ(Gt)、デビュー前からの仲間である元ロッカーズの穴井仁吉(Ba)、熱っぽい演奏に定評のある細海魚(Key)、元REDЯUMのKAZI(Dr)。彼らとともに、ブルースやロックンロールのカバーとルースターズ時代の曲を力強く演奏する大江の存在感は見るたびに大きくなっているような気がする。昨年はルースターズの「Good Dreams」を主題歌にした映画『Good Dreams』(監督・井上竜太)が公開され、大江はとても喜んでいた。自分の書いた曲が多くの人の耳目に触れるのは嬉しいことだろう。

 そんな最近の大江を見ていると、不確かにしか見えなかった自分の足跡を見出して自信を取り戻し、その道の行く末も見えてきたのではないかと思ったりもする。青春の1ページに過ぎなかったはずのルースターズだが、そこにはその後に続く彼が記されていたのだろう。だから彼の中では消せないもの、消えないものとしてルースターズがある。ルースターズの曲を歌うことは、大江にとってのraison d'être(存在意義)なのだろうと思う。

※1、2:『Bollox』2013年6月号
※3、4:『ルースターズの時代 THE ROOSTERS AND THE ROOSTERZ』
※5:『Smart』2004年8月号

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