ハチ=米津玄師の変遷と不変性 「ドーナツホール」と「がらくた」に通じる“欠けたもの”を描く本質
米津の歩みの中でもたびたび話題に上がってきた「ドーナツホール」。その変遷を追うと、その時々の彼の活動形態/価値観の変化を表す、ある種の座標点的な作品としても受け取れる。一方でこの曲が2024年の米津玄師、とりわけ「がらくた」を生み出した彼の元に“帰ってきた”ことにも、やや必然めいたものを感じざるを得ない。
彼自身もたびたび各所で触れていたように、“壊れていてもかまいません”というフレーズを主題に作られた「がらくた」。何かしら“壊れた”一面を抱える人々や彼らの営みを切り取る本曲だが、改めて思えばこの「ドーナツホール」もまた、表現は変われど様々な側面で、欠落のある人間の様子が描かれている。だからこそ今回の映像にも、直近の彼が主題とした様々な事柄が随所に織り交ぜられているのではないだろうか。
〈いつからこんなに大きな 思い出せない記憶があったか/どうにも憶えてないのを ひとつ確かに憶えてるんだな/もう一回何回やったって 思い出すのはその顔だ/それでもあなたがなんだか 思い出せないままでいるんだな〉
〈何も知らないままでいるのが/あなたを傷つけてはしないか/それで今も眠れないのを/あなたが知れば笑うだろうか〉
〈簡単な感情ばっか数えてたら/あなたがくれた体温まで忘れてしまった〉
〈上手く笑えないんだ/どうしようもないまんま〉
楽曲「ドーナツホール」の投稿から11年。今回の映像リメイクによって、ハチ=米津玄師の大きな成長と変化、進化に感慨深くなった人もおそらく多かったに違いない。しかし、だからこそ痛切に感じるのだ。VOCALOIDを用いていた“ハチ”と、自らの姿/声で歌う“米津玄師”。どちらの音楽も「欠けたものを抱える生き辛さ」を描く本質は、何も変わらないままだということを。その点におけるある種の伏線回収もまた、今タイミングでの「ドーナツホール」MVリメイクの意義深さを、より色濃いものにしているのだろう。
※1:https://natalie.mu/music/pp/yonezukenshi04/page/2
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