THE BACK HORN、この世の修羅場に投げかける強烈な問い “光と影”の描写がかつてないスケールに
THE BACK HORNが7月3日にデジタルシングルとして配信開始した新曲「修羅場」は大きな波紋を投げかけそうだ。目の前で取っ組み合い罵り合いが繰り広げられているような歌詞と緊張感のあるバンドサウンドが、スリリングを通り越して冷や汗の出てくるような気分にさせる。荒々しく低音を響かせるギターとベースに打ち込みのクラップが入り混じり、次々と変化していくシチュエーションに聴き手を引き込み翻弄する。〈頭だいじょぶそ?〉と言われても「だいじょぶ」と言えない気分だというのに、ギターは一気にテンポアップし追い詰めてくる。出口のない修羅場の行く先は、やはりそうなるかという悲劇の幕引き。演歌調のコブシが回るブルージーな一節から最後に聞こえる〈好きでした〉の一言に、マジなのかジョークなのか? そんな困惑さえ覚える曲だ。
THE BACK HORNは激しい内省や心の闇を吐露するような曲を、これまでにも多く発表してきた。それは「修羅場」も書いた菅波栄純(Gt)の得意とする作風だ。だがどんなに自嘲し絶望しても最後には救いが見え、生きるための力を感じさせる歌になっているのが常なのだが、「修羅場」には救いがない。こんなにつらい曲を菅波はなぜ書いたのだろう。まず思い浮かんだのは、9カ月前に結成25周年アニバーサリーシングル曲としてリリースされた「最後に残るもの」との関係性だ。これも菅波の作詞作曲だが、穏やかで包容力を感じさせる楽曲にメンバーの松田晋二(Dr)や山田将司(Vo)も菅波の新境地と驚いていたものだ。菅波自身も従来とは違う「まっすぐな歌詞書きたい」という意識で書いたと言っていた(※1)。それは菅波が内省や自嘲を臆せず吐露してきたからこそ辿り着いた地平だったのだと思う。実際この曲は音楽によって多くの出会いを得て、離れても通い合う思いを共有してきた実感を率直に歌い、THE BACK HORNにとって新たなアンセムというべきものになっている。
とは言ってもそうした思いが全てになったわけではない。相変わらず心に闇はあるし悪意や諦めも消えはしない。よほど悟りを開いたような人ならさておき、大抵の人はさまざまな矛盾を抱えながら生きている。「最後に残るもの」が濁りのない思いを凝縮した曲だとしたら、底に沈む澱のようなものを「修羅場」は描いているように思う。もちろんそんな単純な対立構造でこの2曲が存在するわけではないが、THE BACK HORNが25年の間に響かせてきた音楽には、人間が抱える複雑で折り合いの難しい内面が織り込まれてきた。明暗、清濁、善悪と言葉ではわかりやすいものも、現実ではきっぱりと分かれているわけではなくグラデーションのように濃度を変えて重なり合っているのではないか。小さな子供になら、していいこととしてはいけないことをわかりやすく教えなくてはならないが、生きていくうちに世の中や人生はそんな単純なものではないと気づかされる。正論を貫いて生きていきたいものだが、現実は適当に自分の中の辻褄を合わせていくしかない。そうするうちに不満や不安が猜疑心や不信感に膨らんでいったり、自責が大きすぎて病んでしまったり、何かのはずみで道を誤るかもしれない。
2015年のシングル曲「悪人」も菅波が詞曲を手がけた曲だが、〈あの悪人はきっと僕だ〉という歌い出しはゾッとしながらも同じ思いを抱くこともあることに思い当たる。もしも誰かにとてつもない恨みを募らせたら? どうしてもお金が必要になり邪道に足を踏み入れたら? 義憤に駆られて暴力をふるうかも? この曲の悪人がどんな罪を犯したのかはわからないが〈脳内裁判は有罪 満場一致で有罪〉だ。〈悪人〉か〈僕〉かわからないが最後に〈ごめんね〉と呟く。謝罪は相手に向けられたものであると同時に自身の悔恨でもあり贖罪の始まりになる。「悪人」の〈ごめんね〉はそうしたニュアンスだが、「修羅場」の後半で歌われる〈ごめんね〉はちょっと違う。いや、かなり違う。〈許すと思った?〉と謝罪を拒んでいる。謝罪で解決するのは体面上の話で感情的には全く解決しないこともある。人間の本心としてはそちらの方が強いのかもしれない。謝罪を受け入れ罪を許すのは理性のなせることだ。理性を機能させることで人間の社会は成り立っているはずなのだが、ニュースを見ているとそれが危ういと感じることも少なくない。