【EXPG STUDIO対談 Vol.02】NOB×GENERATIONS 中務裕太、育成における“自由度と対話”の大切さ
GENERATIONSのメンバーをはじめとしたJr.EXILE世代のアーティストや、Girls²などのダンスボーカルグループを数多く輩出してきた総合エンタテインメントスクール・EXPG STUDIOが、2023年で20周年を迎える。リアルサウンドでは、20周年を記念して関係者と卒業アーティストの対談を短期集中連載でお届けする。
第2回は、同スクールの大阪校で校長を務め、現在は役員として運営に携わるNOB氏と、その生徒で同校のインストラクターも務めた、GENERATIONSのパフォーマー 中務裕太が登場。二人の出会いやEXPG STUDIO時代のエピソード、現在進行中のプロジェクトについて語り合った。(斉藤碧)
KRUMPを通して、AKIRAらとRAG POUND始動へ
――それぞれ、EXPG STUDIO(以下、EXPG)と出会ったきっかけを教えてください。
NOB:EXILEのAKIRAが地元・静岡の後輩なんですけど、彼が2003年頃にEXPGの立ち上げに関わることになりまして。でも、当時の僕はまだ上京していなかったので、上京してEXPG東京校のインストラクターとして働き始めたAKIRAとは、そんなに連絡を取ることもなかったんです。それがその後、RAG POUNDというKRUMPチームで一緒に活動するようになり、2006年にAKIRAがEXILEに加入することになって。そのご縁で僕もHIROさんを紹介していただき、EXPGにお誘いいただいたので、2007年に入社することになりました。ちょうど“めちゃイケ”のオカザイル企画をやっていた時期ですね。
中務裕太(以下、中務):(小森)隼が参加してたやつですね。懐かしい(笑)。
NOB:あの収録の1週間前に入社して、右も左もわからない状態で現場にいました(笑)。それから12年が経ち、現在はEXPGの執行役員をやっています。
中務:僕がEXPGに入ったのは2008年。2007年にEXPG大阪校が開校して、少し経った頃ですね。それまで僕は地元・大阪のBOOMというダンススタジオに通っていたんですけど、そこでやっていた発表会にEXPGのスカウトの方が友達伝いで観に来ていて、「もしEXILEとか興味あったら、体験だけでも来てみて」とお誘いいただきました。でも僕、実はその時、EXILEのことを全く知らなかったんですよね。今もそうですけど、当時もダンスバカだったんで(笑)。ただ、母親がEXILEのCDを持っていたので、いろいろ聴かせてもらって。なんか面白そうだなと興味が湧いたので、入校を決めました。
――おふたりが出会ったのはいつ頃でしょうか。
NOB:入社当初は東京校で働いていたんですが、2008年に大阪校で1週間インストラクターをやることになって、その際にレッスンに参加していた裕太と出会いましたね。そして2011年、僕が大阪に転勤になり、大阪校の校長に就任した頃から頻繁に接するようになりました。
――裕太さんが特に得意とするダンスジャンルはポッピンやロックだと思いますが、当時のEXPG大阪校では、そういうジャンルもカリキュラムに含まれていたんですか?
中務:大阪校では、ニュージャックスウィングを始めとするオールド寄りのヒップホップが主流だったので、ポッピンやロックダンスはやってなかったです。今だから言える話ですけど、僕、当時はニュージャックスウィングがあまり好きじゃなかったんですよね。しかも、先生もスタジオ側が決めるシステムで、毎回「今日はこの先生とこのジャンルをやります」って決められていたので、正直、最初は嫌々通ってました。そんな一番尖っていた時期を知ってるのが、NOBさんです(笑)。
NOB:あははは。1週間のカリキュラムに行ってた頃は、僕も「この子は受けたくないんだろうな」って感じてましたね。特待生としてスカウトされてきただけあって、生徒の中ではずば抜けて上手でしたし、むしろ教えている側よりも上手かったので、不満もあるだろうなって。とはいえ、東京から先生が行くと、ちゃんと受けてくれてましたよ。めちゃくちゃ嫌そうな顔をしながら(笑)。
中務:問題児でしたね~(笑)。
――NOBさんはクランパーとしてRAG POUNDに所属されていましたが、軸にあるダンスジャンルというと?
NOB:僕はもともと、KRUMPをやるまでは90’sヒップホップが好きで、流行りの振付を囓りながらも、どちらかというと、EXPGで教えていたようなオールドスタイルのヒップホップを踊ってきました。だから、KRUMPを始めたのは後になってからですね。AKIRAやTETSUYAがRAG POUNDというKRUMPチームを組んだ頃、『RIZE』というKRUMPを題材にした洋画が流行って。それを観て僕もKRUMPに興味を持ち、RAG POUNDに加わるという流れでした。
――RAG POUNDは、AKIRAさんが「これヤバいぞ!」って『RIZE』の映像を持ってきて、TETSUYAさんと一緒に見様見真似でKRUMPを踊り始めたことが起源だと伺いました。
NOB:そうですね。AKIRAとTETSUYAが2人でKRUMPを始めて、その頃、PATOさんとSEVAさんという、現在LDHのライブクリエイティブを担当しているおふたりもKRUMPを始めていたので、一緒にやろうと。そこに、だいぶ前からKRUMPをやっていたというTwiggzのJUNが偉そうな顔でやってきて(笑)、RAG POUNDが始動しました。そして、NAOKI(三代目 J SOUL BROTHERS/EXILEの小林直己)が入って、僕も加わることに。REO(GENERATIONS 佐野玲於)は当時小4くらいだったので、僕らのレッスンにくっついてきてた感じですね。
――岩田剛典(三代目 J SOUL BROTHERS/EXILE)さんも『RIZE』をきっかけにKRUMPを始めたそうですし、当時の佐野さんのようなキッズダンサーもいたことを考えると、NOBさんがEXPGに入社した2007年頃には、KRUMPを習いたいという生徒も多かったのではないですか?
NOB:いや、“流行ってた”と言っても、僕らのようなダンス好きの間で流行ってただけなので……(笑)。今と違って、当時のKRUMPはマイノリティでした。だから、スキルアップに繋がるダンスジャンルではあるんですけど、カリキュラムの中で無理矢理生徒にやらせるのは違うかなと。生徒から「やりたい」っていう声が多かった時だけ、たまに教えるようにしてましたね。裕太はKRUMPやってたっけ?
中務:僕もそのレッスンに入ってましたね。KRUMPは好きやったんで、NOBさんがやるって聞いて、後ろのほうで受けてました。
中務裕太、最年少インストラクター就任の経緯
――先ほど、生徒時代の裕太さんは問題児だったとおっしゃっていましたが、他にはどんな思い出がありますか?
中務:僕からは言えることが少ないんですけど(笑)。
NOB:言えるやつを1つ挙げるとしたら?
中務:ある時、二代目 J Soul Brothersの皆さんが全員で、大阪校にレッスンに来てくださったことがあったんですよ。会えることも貴重なのに、直接教えてもらえるなんて、滅多にない機会じゃないですか。でも当時の僕は尖っていたので、「二代目なんて知らねぇーし!」って受けずに帰りました(笑)。
NOB:あはははは!
中務:この話をTETSUYAさんにしたら、めっちゃ笑ってました(笑)。それくらい問題児だったので、NOBさんもよくこんな僕の面倒を見てくれてたなって……今は感謝の気持ちでいっぱいです。
NOB:僕からしたら、裕太みたいに分かりやすく尖ってる子のほうが接しやすかったですね。表面上明るく良い子に振る舞っている子よりも、いろいろ葛藤を抱えてるんだろうなっていうのが目に見えて分かったので。頻繁に声をかけるんじゃなくて、自分なりに解決するだろうなと信じて待ってました。でもやっぱり、生徒として燻ってるくらいなら、教える側に回ったほうが裕太のためになると思ったので、僕が大阪校の校長になった頃に「これだけダンスが上手いんだから、さすがにインストラクターになったら? 教えるほうに回って、そこから夢を目指したらいいんじゃない?」っていう話をして。
中務:そう言っていただいて、すぐにインストラクターを始めましたね。当時18歳だったので、最年少イントラでした。
――裕太さんは、EXPGに入る前もインストラクターをされていたとか。
中務:BOOMにいた時も「インストラクターやったら?」って言われて、16歳から教える側になりましたね。その経験もあって、EXPGでもわりとすんなり教えることができましたし、インストラクターになってからも、NOBさんは僕の好きなようにやらせてくれました。
NOB:裕太のダンスや振付が上手いのはもちろんのこと、生徒も楽しそうにしていたので、安心して任せていましたね。
――楽しくダンスを学べるというのは、EXPG全体が大事にしていることなんでしょうね。
NOB:……というのもありますし、あの頃の大阪校は悩みを抱えている生徒が多くて、空気が悪かったんですよね。2010年にEXILEが初めてスタジアムツアー『EXILE LIVE TOUR 2010 FANTASY』をやったんですが、それに出演する子が多かったのでいろいろ葛藤があったみたいで、その後も良くない空気を引きずっていたんです。僕も東京校にいた頃にスタジアムツアーを経験して、初めてのことが多すぎて心身共に疲弊していました。そんな時、大阪校では校長の異動が決まり、僕も会社の方から「心機一転、新しい環境でやってみたら?」と提案してもらって。「大阪校の雰囲気を良くしてほしい」という期待も感じながら、大阪校の校長に就任しました。そういう経緯があったので、当時は300人くらい生徒がいたんですけど、ほぼ全員と面談して。その中で裕太とは「インストラクターになったら?」という話をして、一緒に大阪校を盛り上げていくことになりましたね。