「大手メディアではこのような曲、到底流せませんよ」 金平茂紀が語る、URC作品の反権威的な姿勢が日本社会に残した衝撃
日本のインディレーベルの先駆けとして1969年に発足、フォーク/ロックジャンルにおいて多くの先鋭的な才能が集ったURC(アングラ・レコード・クラブ)。今年6月から同レーベルのCD復刻再発シリーズが順次リリースされている。
リアルサウンドでは、同シリーズ第一弾としてリリースされた「URCレコード入門編コンピレーションアルバム」『URC銘曲集―1 戦争と平和』を監修したキャスター 金平茂紀氏へインタビュー。これまでキャスターとして国内外の社会情勢と向き合い、リアルタイムで収録楽曲に触れてきた金平氏は、どのような意図で同作を監修したのか。収録曲を振り返りながら、URCがいかに挑戦的なレーベルであったのかを語ってもらった。(編集部)
高田渡「自衛隊に入ろう」は「今聴いても本当に魅力的だし、ヤバい」
ーー金平さんが監修されたコンピレーションアルバム『URC銘曲集―1 戦争と平和』。じっくり聴きましたが、どの曲も存在感やパワーが凄まじかったです。
金平茂紀(以下、金平):本当にね。僕自身、収録曲を聴き直しながら、改めてびっくりしちゃいました。この人たち、何でこんなに自由だったんだろうなって(笑)。今の歌と違って権力への忖度だとか、「これ言っちゃマズイかな」みたいな自主規制とか、微塵も感じさせないでしょう。高田渡の「自衛隊に入ろう」なんて、今聴いても本当に魅力的だし、ヤバい。
ーー1969年、ベトナム反戦の気運が高まる最中に発表された曲ですね。
金平:そう。元はピート・シーガーというフォークシンガーの反戦歌で、それを渡さんが替え歌にしてるんですけど。コミカルな語り口とは裏腹に日本語詞のアイロニーが強烈なんです。例えば〈鉄砲や戦車や飛行機に/興味をもっている方は/いつでも自衛隊におこし下さい/手とり足とりおしえます〉という一節。これなんて自衛隊、もっと言うならば軍隊という組織のある部分を鋭く射抜いている。そう言えば、先日、陸上自衛隊の訓練中に痛ましい事件がありましたよね。
ーーはい。岐阜市の射撃場で。
金平:一報に接したとき、実は「あっ!」と思いました。とても悲しいことですが、渡さんのこのフレーズをどうしたって想起せざるをえなかった。昔も今も、いわゆる大手メディアではこのような曲、到底流せませんよ。だって本当のことすぎるから。でも、こういう歌がふつうに共有され、ライブ会場で合唱されていた時代が実際にあったわけです。今では信じられない話だけれど。
ーーなるほど。
金平:〈日本の平和を守るためにゃ/鉄砲やロケットがいりますよ/アメリカさんにも手伝ってもらい/悪いソ連や中国をやっつけましょう〉というパートもすごいですよ。ソ連をロシアに替えれば、そのまま日本の現状に当てはまる。「自衛隊は合憲か否か」みたいな議論を未だに続けている私たちに、鋭利な問いを突きつけてきます。渡さん独特の、コミカルな語り口にくるんでね。
ーー軍隊をテーマにした曲では、中川五郎の「腰まで泥まみれ」も鮮烈でした。こちらも1969年リリース。原曲は「自衛隊に入ろう」と同じくピート・シーガーです。いわゆるバラッド(物語歌)形式のナンバーで。
金平:重装備の兵隊たちが、バカな上官から「泥の河を渡れ」と命じられ死にかける話ね。1942年にアメリカのルイジアナ州で起きた事件がモチーフになっていますが、明らかにベトナム戦争を風刺した内容です。これもまた、五郎さんの日本語詞が秀逸なんだよね。迸るようなギターに、明晰な言葉を乗せて。ピート・シーガーの批判精神をしっかりと受け継いでいる。とにかく軍隊では、上官命令は絶対ですから。いかに愚かでも従わなきゃいけない。個人の考えなんてどうでもいい。歌が生まれて半世紀以上たった今も、そこはまったく変わってませんから。
ーー軍隊だけじゃなく、お役所でも企業でも、そういう事例は数限りなく思い浮かびます。
金平:いつの時代も変わらない組織の病理ですよ。ただ、60年代後半から70年代前半の日本には、それを果敢に歌おうとするミュージシャンと強く希求するリスナーがいた。そして世の中全体にも、それを受け容れる風通しのよさがあった。当時のシーンでそれを象徴していたのが、URCというレーベルだと僕は思うんですね。
ーー金平さんは今回のコンピレーション盤に、「言葉が音楽とともに生きていた時代」という解説文も寄せておられます。当時の自分を振り返って「〈社会〉との接点を強烈に求めていた」「もっと自分と〈世界〉を直接的につなげたいとでもいうような青臭い欲求のようなものがあった」と書かれていたのが、とても印象的でした。
金平:まさにそういう時代だったんですよね。ライナーノーツにも書かせてもらいましたが、やはりベトナム戦争が大きかったと思う。アメリカの爆撃機が、こともあろうに日本国内の米軍基地から飛び立って、自分たちと同じアジアの人々を殺してるわけですから。それに対する反発と怒りを、僕も含めて多くの若者が共有していた。
ーー日本で最初のインディペンデント・レーベルと言われるアングラ・レコード・クラブ(URC)は、1969年2月に発足しています。当時、金平さんは……。
金平:15歳になったばかり。北海道旭川で暮らす中学生で、ビートルズ(The Beatles)に夢中でした。イギリスのリヴァプールから突如現れた4人組が、世の中のあらゆる秩序をひっくり返していくのをリアルタイムで見ていた世代です。何しろ長髪のミュージシャンはNHKに出られなかったような時代ですから(笑)。彼らの存在自体が革命であり衝撃だった。と同時に、日本語で真摯なプロテストの声を上げているフォークシンガーたちも僕なりに追いかけていました。今と違って情報が少ない時代でしたから、ラジオに齧り付くようにしてね。ビートルズとURC。この2つは自分の中で完全に繋がっているんです。
ーーURCは当初、通信販売のスタイルで始まったんですね。会員からお金を募り、LPやシングル盤を配布するシステム。ところが予想を超えて応募が殺到した結果、半年後には全戸レコード店での一般販売に移行した。
金平:その際に、既存の流通ルートを使わなかったのがポイントなんですね。要は大手レコード会社ではとても扱えないような作品を、レコード屋さんとの直取引で出してしまう。すごい発想だなと震えましたよ。田舎の中学生からすれば、ほとんど路上販売に近い感覚ですから(笑)。ザ・フォーク・クルセダーズが歌って発禁になった「イムジン河」なんて、最たるものでしょう。
ーー映画『パッチギ!』(2004年)の主題にもなった美しい曲ですね。
金平:もともとは南北朝鮮分断の悲劇と祖国統一の願いを歌ったもので。フォークルの親しい友人だった松山猛さんが日本語の歌詞を付けた。大変人気のあるレパートリーで、レコード化も決まっていましたが、発売元の東芝音楽工業(当時)が政治問題化を恐れてお蔵入りを決めてしまった。音楽好きには有名な話です。で、この「イムジン河」をいち早く発売したのがまさにURCだった。
ーー今回のコンピレーション盤にもしっかり収録されています。
金平:歌っているミューテーション・ファクトリーというのは、松山さんが中心になって結成されたフォーク・トリオで。言わば日本語版「イムジン河」をレコードで残すために作られたグループなんですね。編曲が加藤和彦さんで、ディレクターが北山修さん。つまりフォークルのメンバーが総出で関わって、第1回の配布シングルとして世に出た。URCが若者の心を捉えたのはこういう反権威的な姿勢も大きかったと思います。商業主義的な音楽ビジネスの、文字どおり真逆の道をいったわけですから。
ーー華やかな歌謡曲やポップスに対する、一種のオルタナティブでもあったと。
金平:同じ動きはたぶん、どの分野でもあったと思いますよ。大劇場でかかる商業演劇に抗する、アングラ芝居。エスタブリッシュなアートに対する、アングラ芸術。お行儀のいい建前じゃなくてね。もっとドロドロとして、腹の底から湧き上がってくる本音をぶつける表現の場として、アンダーグラウンドが存在していた。とにかく自分の言いたいことを言う自由さに、10代の自分は憧れましたし。その気分は、ジャーナリストとして働くようになってからも結局変わらなかった気がします。