村井邦彦×細野晴臣が明かす、YMO海外展開の背景 「物語にして後世に伝えていくのは大事な仕事」

村井邦彦×細野晴臣 対談

 アルファレコード創立者の村井邦彦と日本経済新聞編集委員の吉田俊宏が共同で執筆した連載小説『モンパルナス1934』が、2023年4月30日に書籍化されることが決定した。

 『モンパルナス1934』は国際文化交流プロデューサーとして活躍した川添浩史(紫郎、1913~70)の半生を描いたヒストリカル・フィクションだ。川添は文化人が集ったサロンとして知られるレストラン「キャンティ」(東京・飯倉片町)の創業者でもある。村井と吉田は多くの資料と関係者の証言に基づき、大胆な創作を交えて壮大な物語を書き上げた。

 川添がパリのモンパルナスを拠点に活躍し始める1934年から、アヅマカブキ(日本舞踊)の一座を率いて欧米各地を回る中で梶子と出会って恋に落ち、夫婦でキャンティを開業するまでを描いている。さらに川添の没後にアルファからデビューしたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の世界進出は、川添の薫陶を受けた村井がアヅマカブキの欧米ツアーをモデルにしていたという事実もドラマチックに明かされ、日本のポップカルチャーの源流を知るうえでも貴重な読み物になっている。

 リアルサウンドでは書籍化を記念して村井邦彦と細野晴臣の対談を企画。キャンティで語り合った夜の思い出やYMOの海外展開の裏話などを語ってもらった。(2023年1月30日 取材)

キャンティで細野晴臣と語り合った夜は強烈な印象として残っている

村井邦彦

村井:『モンパルナス1934』は全体としては川添紫郎(浩史)さんの半生を描いた物語なんだけど、最終話のエピソード14は後日談として川添さんが亡くなった後の話も書いているんです。YMOがロサンゼルスのグリークシアターで演奏した1979年夏の話が中核になっています。僕がYMOを世界に送り出す時にモデルにしたのは、かつて川添さんが成功させたアヅマカブキの欧米ツアーだったとか、象ちゃん(川添の長男で音楽プロデューサーの川添象郎)が撮ってくれたグリークシアターのライブ映像を僕がNHKに持ち込んでニュースで流してもらったこととか、いろんなエピソード盛り込みました。

細野:『モンパルナス1934』で描かれてきた物語が、最後はYMOに至るわけですね。実はね、僕は川添(浩史)さんにも梶子さんにもお会いできなかったんですよ。だから、ああ、そんな話があったんだと驚いています。

村井:ああ、会っていないんだ。意外だねえ。僕たちが初めて出会った場所は、その川添さんの家だったのに。

細野:そうなんですけど、その時に川添さんや梶子さんがいらしたのかどうかも分からなかったんです。僕にとって川添さんたちは上の世代の方々で、村井さんがちょっと特殊な立場にいらっしゃったんだと思います。

村井:僕らは3歳ぐらいしか違わないのに。

細野:村井さんは当時、僕らとは体験の量が違っていたと思います。とにかく教養の厚みがすごかったですから。

村井:教養と呼べるのか分からないけど、ませた友達が多かったから、その影響はあったかもしれないね。友達に勧められて中学生の頃からモダンジャズを聴きまくり、ヌーベルバーグの映画を片っ端から見ていましたからね。それで高校1年の頃からキャンティに出入りしていた。

細野:それは生意気ですね(笑)。

村井:川添さんや梶子さんのそばにいると、周りにすごい人たちが集まってくるんですよ。「門前の小僧習わぬ経を読む」みたいな感じで、ただそこにいるだけでいろんな知識や知恵が頭に入ってくるわけ。

細野:いやあ、うらやましい環境です。僕がキャンティに行ったのは、アルファレコードでYMOの活動を始めてからですからね。村井さんに誘われて連れていってもらいましたよね。あれが初めてなんです。

村井:僕はキャンティで細野晴臣と話した夜をすごくよく覚えているよ。一緒に海外で売れるレコードを作ろうと話したよね。それで細野君とプロデューサー契約を結んで、まずリンダ・キャリエールというクレオールの女性歌手のアルバムを出そうとしたんだけど、お蔵入りになっちゃった。その後、1978年に細野晴臣&イエロー・マジック・バンドの名義で『はらいそ』というアルバムをアルファから出して、僕は良い作品だと思ったんだけど、あまり枚数は売れなかった。その後、YMOになったんだよね。

細野:そうですね。

村井:キャンティで細野君と話した夜のことだけど「(高橋)幸宏と(坂本)龍一と一緒にこういう音楽を作るんだ」って、僕に説明してくれたよね。すごく一生懸命に。あまり人に一生懸命説明するタイプじゃないでしょう? でもその夜は本当にいろいろ話してくれた。とにかく頑張ってやろうとしているのが、ひしひしと伝わってきたんだよ。

細野:その時はアルファとの契約を続けるか辞めるかの分かれ道に立っていましたからね。やっていることは面白かったけれど、あまり聴いてもらえないから、うっすら「辞めようかな」と思っていた頃でした。僕は遊びで始めたところがあったけれど、村井さんとの契約だから、絶対に成功させなければいけないという気持ちもあった。だから、ちょっと真剣にお話ししちゃったんでしょうね。だって当時、初めて聴いた時は「なんだこれ?」と思ったでしょう?(笑)

村井:でもね、僕が分からないことをやってくれているのが良かったんですよ。プロデューサー契約は「自分にできないことを他の人にやってもらう」というのが基本だからね。

細野:そうか。そういう考え方については聞いたことがなかったですね。

村井:かつて日本コロムビアの洋楽部に金子秀さんという外国のレコード事情に精通した教養人がいたんです。知り合ったのは、僕が作曲家としてデビューしてヒット曲が出始めた頃だったかな。当時、プロダクションから曲の依頼が殺到していたんだけど、金子さんはこう言ってくれたの。「自分でレーベルを作って、自分の作りたい音楽を作ってみたらどうだ。コロムビアで売ってあげるよ」って。それで僕はアルファミュージックを立ち上げることになったんです。当時、コロムビアの邦楽には美空ひばりや島倉千代子といったスターがいた。一方、金子さんの洋楽部はクラシックやジャズ、ポピュラーのほか、当時のいわゆる「和製ポップス」を手がけていたんだよね。いしだあゆみとか、ジャッキー吉川とブルー・コメッツとか。それで僕には「ブルー・ライト・ヨコハマ」や「ブルー・シャトウ」より、さらに前衛的な音楽をやれというわけ。

細野:それはすごい注文です(笑)。期待されていたんですね。

村井:つまり「古い人間が考えられないようなことをお前がやれ」という意味だよね。しかも制作費は向こうが出してくれるというんだからね。僕が細野君とプロデューサー契約をしたのも、それと意味合いは同じですよ。僕ができない仕事をやってもらいたかった。海外に持っていくのは僕らがやるから、音楽作りは任せるよ、という感じですね。

細野:そんな注文があった中で、よく僕のことを見いだしてくださいましたね。

荒井由実『ひこうき雲』

村井:だって、川添さんの家で会った瞬間から「この人は凄い!」と分かっちゃったから(笑)。細野君は小坂忠と一緒にいて、象ちゃんのギターを借りて爪弾いていたでしょう。僕はもう8小節ぐらい聴いただけで「ああ、この人は凄い」と確信しました。その後すぐに「ユーミンのバックバンドをやってよ」と頼んだと思う。

細野:そうでしたね。『ひこうき雲』(1973年発売)のバックバンドを務めたのは、村井さんと出会って間もなくの頃でした。

皆さんとの出会いなくして、絶対にYMOの成功はなかった

細野晴臣

村井:その後、細野君はクラウンに行ったからアーティスト契約はできなかった。それでプロデューサー契約にしたんです。リンダ・キャリエールのプロデュースはどういうふうに進んだんだっけ?

細野:アルファとプロデューサー契約をしてから、何をやっていいのか分からない時間がずいぶんあったんですよね。契約したものの、遊んでいたような時期が何カ月か続いた。何かやらなきゃと思った時に村井さんから「オーディションをして、アメリカのアーティストをプロデュースしようよ」と提案されて一緒にアメリカまで行ったんです。

村井:そういえば、日本経済新聞の「私の履歴書」という連載企画のために昔の写真を探していたらリンダ・キャリエールと細野君と僕の3人でビバリーヒルズホテルのプールにいる写真が出てきたんですよ。真ん中にリンダがいて、細野君と僕が両側から彼女にキスしようとしているの(笑)。

細野:そんな写真が(笑)。それにしてもリンダ・キャリエールのアルバムがお蔵入りしちゃったのは残念でしたね。

村井:うん、残念だったね。無理をしてでも出せばよかったんだけど、言葉(歌詞)がある音楽は難しいなという判断になった。でも、その流れでアルファがアメリカのA&Mレコードと業務提携することになって、アルファのスタジオAでA&Mの幹部に細野君の「Chattanooga Choo Choo(チャタヌガ・チュー・チュー)」をプレゼンテーションすることができたんだよ。

細野:村井さん、あれを聴かせたんだ! 恐ろしいね、怖いよ(笑)。

村井:でも聴かせたら、みんな「おー!」って言っていたんだよ。すごく反応があった。それでジェリー・モス(A&M共同会長の一人)は細野君のことが印象に残ったみたいで、その後も折に触れて「あのハリー細野はどうした?」って聞かれたからね。

細野:その話は初めてうかがいますね。びっくりです。

イエロー・マジック・オーケストラ『イエロー・マジック・オーケストラ』

村井:アルファがA&Mと提携する時、ロサンゼルスにあるA&M本社にアルファの社員を常駐させてほしいという条件を出したんです。それで毎週木曜日に開かれるA&Mのマーケティング会議にアルファの社員が出席できるようになった。これが非常に重要な会議なんですよ。今度あのアーティストと契約するとか、このアーティストでこういうレコードを作りますとか、今プロモーションをかけている最中で売れそうなのはこれだとか、生の情報が入ってくるわけ。その会議の席上でYMOの曲を流したんです。上層部の連中にはあまり受けなかったんだけど、若手が「これは面白い」と言い始めて、それが海外進出の発端になった。

細野:その話は当時、ちらっと聞いていましたけど、会議の場で曲をかけたというのは初めて知りました。村井さんにはそういうネゴシエーション(交渉)の才能がありますよね。

村井:A&M共同会長のハーブ・アルパートとジェリー・モスは子飼いのプロデューサーたちと一緒にメインの仕事をやり、それとは別に自分たちとはちょっと違うカラーの人をプロデューサーとして連れてきて好きにやらせていたんです。その一人がキャロル・キングを手がけたルー・アドラーで、次にやってきたのがトミー・リピューマ。トミーは根っからのジャズ好きなんだけど、1970年代後半になるとジャズも下降線になっていたから何か新しいことを手がけなきゃいけないと思っていたんだろうね。そこにアルファがYMOのデビューアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』を持っていったわけですよ。

イエロー・マジック・オーケストラ『イエロー・マジック・オーケストラ』(米国版)

細野:とんでもないものを持ってきたと思ったでしょうね(笑)。トミーと一緒に米国版『イエロー・マジック・オーケストラ』のリミックスをやったのは不思議な体験で、めまいがしたほどでした。しかもレコーディングエンジニアは大尊敬するアル・シュミットでしたからね。「この現実はなんだろう。夢じゃないのか」と思いながらやっていました。

村井:仕事がやりにくいとか、これは本意じゃないといったことはなかったの?

細野:僕というより、日本版『イエロー・マジック・オーケストラ』が好きな人たちは「あれ? 変わっちゃったな」という印象はあったかもしれませんね。僕自身はそういうふうには思っていなかったのですが、よくよく考えてみるとエコーが違ったのかなと思います。キャピトル・タワーにあるキャピトル・レコードのスタジオには広いエコールームがあって、それが名物なんですね。壁に水が流れていて、すばらしい造りなんです。トミーはそれを使いたくて仕方がなかった。だからエコーがちょっとアナログ的で印象が違うのかもしれません。僕は好きでしたけどね。

村井:レイ・チャールズがレコーディングした有名な場所ですね。それで米国版『イエロー・マジック・オーケストラ』のレコードが出て、フロリダのディスコで最初に火がついたんだよね。

細野:そうそう。「ファイアー・クラッカー」(アルバムのA面2曲目)ですね。たしかR&Bチャートにもランクインしたんですよ。

村井:それでグリークシアターでザ・チューブスの前座をやることになった。

細野:後に川添(象郎)さんからグリークシアターの裏話を聞いたんだけど、それが面白くてね。川添さんがハリウッド式のショービジネスのやり方を駆使したというか、PA(音響)の人に袖の下を渡して、グッと音量を上げてくれたらしいんですよ(笑)。僕らは全然知らなかったけれど、それがあのライブの成功の一因だったと思います。実はすごく大事なことをやってくれていたんだなと思って、感謝しています。

村井:500ドルあげると音量が上がるって言っていました(笑)。適材適所というか、細野君たちのように新しくて良い音楽をやる人たちと、アメリカでショービジネスの経験を積んだ象ちゃんと、僕みたいにあちこちで話をつけてくる役割の人間がそろって初めてYMOのプロジェクトはうまくいったのだと思います。楽しかったよね、あの頃は。

細野:ええ、楽しかったですよ。あの頃のエピソードには「いま思えば……」と思い当たることがたくさんあります。当時は本当にちんぷんかんぷんで、僕らは闇雲に動いているだけでした。アメリカでは川添さんに同行していただいたわけですが、僕なんて川添さんのことをプライベートでホテルの部屋で手品をやっている手品おじさんだと思っていたくらいです(笑)。僕らが知らないうちに、裏で皆さんがプロの仕事をしてくれていたんだなと、後から知って驚くことばかりです。この出会いなくしてYMOの成功はなかった。

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