【浜田麻里 40周年インタビュー】第5弾:メモリアルな武道館公演で実感した大きな節目 重厚なメタルで表現した確固たる意志や、『LOUD PARK』出演も振り返る
社会の不条理に抱いた疑念から、再びヘヴィな楽曲に傾倒
――世の中の空気としても、実際のチャート実績などからしても、『Reflection -axiom of the two wings-』の頃から、麻里さんへの注目度の高まりは如実に感じられるものになっていました。
浜田 : アルバムを発売してもメディアなどで取り上げられることが極端に減っていた時期に、ファンの方が個人で立ち上げてくださった応援サイトがありまして、そこに集う皆さんの熱意に勇気づけられてきました。まだSNSがない頃からです。置かれた環境がどうであれ、私の作品がファンの皆さんに届いていることを直に感じることができたんですよね。それと、その頃から、徳間ジャパン(コミュニケーションズ)の私の担当に、とても優秀でコミュニケーション能力の高い女性がついてくれて、彼女に助けられました。それらの相乗効果で、気持ちにエネルギーが満ちていきましたね。
――そういった中でリリースされたアルバム『Aestetica』(2010年2月)では、LOUDNESSの高崎晃さんがレコーディングに参加してファンを驚かせましたよね。ただ、それは一連のものとして繋がって見えるんです。
浜田:そうです。高崎さんは40年前からの知り合いですし、隣に住んでたこともあるんですけど(笑)、そこまで1対1としての繋がりは強くなかったんです。樋口さんの死によって、改めて何かが繋がったのだと思います。よりヘヴィな世界に私をまた誘い始めた一つのきっかけとも言えるかと。
――先ほどの話ではないですが、メタルなアルバムが登場した印象でしたよね。もちろん、『Aestetica』はそういった意図の下に制作されていたと記憶しています。
浜田:そうですね。『Aestetica』は“己の美学”という意味でして、ヘヴィなサウンドで凛とした心意気を聴いていただこうと意識しました。高崎さんと一緒に何かをやるには、本来はもっと長い時間がかかっていたのかもしれないけど、(樋口の死で)その期間が短縮されたような気はします。
レコーディングを終えてより一層、自分のエネルギーが上向いていきました。スペインに住む友人のカメラマンの元に一人で出向いて、ジャケット写真を撮ってもらったんです。フランスを経由してスペイン北東部、バスク地方に入って。あのジャケットの背景は6世紀の建造物なんですよ、すごいでしょ。教会跡なんですが、ジャケット写真に収まりきらない世界観でした。ジャケットで履いている青いスカートは、旅の途中、スペインの古都を一人で歩いていたときにブティックで見つけたんです。偶然の出会いでした。あの衣装がきっかけで、ロングドレス系のステージ衣装が多くなっていったんですよね。
――そうでしたか。ここから作品を重ねるごとに、ヘヴィメタル度はどんどん上がっていくんですよね。2012年2月にリリースされた『Legenda』にしても明らかですし。
浜田:『Legenda』はメタルというよりハードロックに近いかなとは思いますが、この作品でのハードさは自分の感性そのままの素直なものなんですね。自作の曲アレンジが多かったので。だから近年より少しシンプルめですが、メロディアスハードな感じに仕上げました。大変気に入っているアルバムです。そこから『Mission』(2016年1月)、『Gracia』(2018年8月)と続いていって、確かに重厚感は強まりました。高崎さんの音がハード色を強めてくれていたところに加えて、他のヘヴィ系のギタリストにもオファーする時代に入って現在に至ります。ただ、ハードな音のアルバムを出すと、みなさん、“原点回帰”ってすぐに書きたがるじゃないですか。客観的視点としては決して間違ってはいないと思うんですけど……それ以上に、自分にとっては現在の自分なんですよ。昔に戻りたいとかではなくて。曲作りもほぼ全曲共作という形で、今まで積み上げてきた自分ならではのメロディやアレンジを施してどんどん積み重なった、現在形の自分を意識しています。
なぜヘヴィ系の曲を作りたくなってきたのか、その理由を冷静に考えてみたんです。いろいろ総合的なものではあるのでしょうが、 何かしらの“衝動”に近い、凝縮されたエネルギーというか、もしかしたら根底に渦巻く“怒り”が一つの要因のような気もするんですよね。社会や時代に対しての疑念、もちろん個人的な出来事や、ある意味で理不尽に与えられてしまった厳しい環境とか。それらに対する感情が、自分をハードな音楽をやりたい気持ちに駆り立てていくというか。ふとそんな気がしたんですよね。
――それは今の麻里さんを後押しする原動力の一つとしてあるかもしれませんが、その発端となった10年ほど前の『Legenda』のタイミングにも、何かしらそういうものがあったと言い換えられますよね。
浜田:もう当時なんて、一番渦巻いてるじゃないですか。何よりもあの震災(東日本大震災)ですよ……。あれほどの絶望の中で、「絆、絆」とみんなで連呼することが、果たしてあの壮絶な悲しみを癒すことに繋がるのだろうかと。私はしっくり来ませんでした。
――となれば、もう歌で表現するしかない。
浜田:きっとそう思ったんだと思います。ハードでダークな世界でのカタルシス、人間の心理的な癒しとなり得るその側面を深掘りしたいと。その視点を、やっとこの頃に言葉にできるようになりました。特に近年は、社会に対する疑念や怒りが渦巻いていると思います。
――確かに、自分が置かれている状況というよりも、どちらかといえば世の中に対する怒りのほうが大きいようにも思えます。
浜田:世論の空気感がピンとこないなぁといつも感じてはいますね。紛争についても、“戦争なんて本来は誰も欲していないのだから、経済や社会、心理的な原因を分析しよう”という論調がなぜ出てこないんだろうと。なぜわずかな領土と指導者たちの虚栄心のために多くの兵士が死んでいくのか、というシンプルな疑問です。やっぱり身近なところでは、誰もが平和を願っているはずの日本の世論から見え隠れする思考力や理性について思うところはあります。自分を含めた日本人の民度に期待しすぎなのかもしれませんね。
――それはここ数年、よくおっしゃっていますよね。
浜田:はい。話が広範になりすぎるので、個人の話に戻りますけれど、嫌な言葉を使えば、自分を取り巻いてきた不条理、理不尽さに対する義憤ももちろん溜まりますよ、人間ですから。大人なら誰でもその背景などもわかります。最近で言えば、公式行事での汚職問題にしても、私にとっては決して遠い世界のことではないので、何も驚きはないわけですけれど、ストレスを感じてもどうにもできないパワーバランスってあるじゃないですか。私が苛立ちを感じるのは、権威そのものではなく、それに対する物言わぬ“同調”なんですよね。もしかしたら私の根本にあるのは、そういう怒りなのかなと思います。
デビューのときもやっぱりそうじゃないかなと思ったんですよ。それ以前から、不特定多数の方にとっての耳馴染みのいい発声をして、商品名を綺麗に歌うという仕事をしていく中で、勉強も嫌いな方じゃなかったけれど、何よりも歌うことを前提にその他のことを決めてきました。それが時代的にはまっとうな、夢の実現のさせ方でしたから……夢というのは、あくまでわかりやすく言うとしたらですけど。「ハードな音楽でデビューしたい」となったのは、深層心理として、渦巻くマグマみたいなものを昇華したい気持ちが、自分をそこに向かわせたんじゃないかと思ったんです。
「Return to Myself 〜しない、しない、ナツ。」はAOR系のアメリカのミュージシャンに感化された時代の曲でもありますが、根本的に、あの時期は強い怒りなんて誰も持ってなかったんですよね。日本人はみんな少し高揚していて、世界的にも一目置かれていました。だから、時代を見据えた良い音楽で、自分の曲が売れるということに違和感が全然なかったんです。時代背景と日本の皆さんの意識に合致した曲が生まれた、それだけのことです。やっぱり私の音楽というのは、その時代を背景にした、自分の表現の一つなんだと客観的には思います。そして後年、ハード系に向かった心理は、もしかしたら、2007年に父を亡くしたことにも関係しているのではないかと。端的に言うと死因は医療過誤でした。家族の目の前で繰り広げられた酷い治療態勢と、病院側の死因のごまかしや横柄な対応は、どうしても看過できないもので、私の人生で最も強い怒りの体験となったんですよね。