【浜田麻里 40周年インタビュー】第4弾:度重なるレーベル移籍で芽生えた反骨精神 9年ぶりのライブ復活への想いや、9.11など社会不安が制作に与えた影響

浜田麻里 40周年インタビュー 第4弾

 日本におけるヘヴィメタルシンガーのパイオニアである浜田麻里。2023年にデビュー40周年を迎える彼女は、今も最前線でその圧倒的なハイトーンボーカルを響かせ続けている。リアルサウンドでは「浜田麻里 デビュー40周年特集」と題して、全6回の連載インタビューを展開中。幅広い音楽性の根源や制作拠点の変遷など、40年間を振り返って、ターニングポイントとなった出会いやライブ、各アルバムの制作秘話から、活動に対する赤裸々な苦悩・葛藤まで、貴重なエピソードも交えながら存分に語ってもらった。第4回は、MCAビクターからポリドール、さらに徳間ジャパンコミュニケーションズへのレーベル移籍を経て、ライブ活動を再開し、今に繋がる新たな制作体制の基盤が作られていった1994年〜2007年ごろまでを振り返る。(編集部)

浜田麻里 デビュー40周年特集

2023年にデビュー40周年を迎える浜田麻里。日本におけるヘヴィメタルシンガーのパイオニアである彼女は、今も最前線で圧倒的なハイ…

「MCAビクターから移籍したいとは全く考えていなかった」

――前回はMCAビクター移籍後についてお話を伺いましたが、1994年3月には『INCLINATION』がリリースされましたね。このシリーズは後にも続いていきますが、麻里さん本人が監修するベストアルバムとしてファンには知られています。

浜田麻里(以下、浜田):はい。最初の『INCLINATION』の満足度が高かったこともあって、このシリーズはすごく重要視しているんですね。ディスク1は東京で録音した初期の楽曲を集めた「TOKYO」、ディスク2は1987年からアメリカで録音したものを集めた「LA」という形で、変化を対比できるように作りました。その後も、このシリーズでは2枚の傾向を異なるものにしていますね。すごく売れましたし(オリコンチャート1位)、ファンの方々にはいまだに聴いていただいているアルバムだと思います。

 そうそう、ジャケットのアートワークの写真を撮ったカメラマンはイギリス人なので、撮影したのはロンドンに滞在していた時期だと思うんですが、あのアートワークの構図もシリーズになって、後の『II』『III』と順番に並べると、同じ構図でだんだん歳をとっていく感じが面白いと思ってます(笑)。

――歳をとっていく感じだとは考えたことがなかったです(笑)。最初の『INCLINATION』を制作したときは、10年ごとに出していこうという考えではなかったと思いますが、40周年となる今年、ファンのみなさんは『INCLINATION IV』のリリースを期待していることでしょうね。

浜田:そうなんですよね。新しいアルバム(2023年4月19日発売の『Soar』)のリリーススケジュールがかなりずれてしまったので、40周年内で出すのは無理だろうと思うんですけど、もちろん作るつもりではいます。『INCLINATION』シリーズはファンの方の期待もすごく高いから、しっかり準備していきます。

――そして1996年3月には『Persona』がリリースされています。それまでとは趣向の異なる作品になりますね。

『Persona』

浜田:「こんなに変わっちゃったのか!?」っていう否定的な声が当時は大きかった印象です。少し悲しく感じはしましたが、それはそれで仕方ないことだとも思っていました。デビューのときもそうだったように、時が経過しないと伝わらないこともあるので。『Anti-Heroine』をリリースして、メジャーな女性ロックの先駆的なイメージでの私の役割は、そろそろ終えようと考えていたんです。なぜなら、すでにコマーシャルロック風の女性シンガーがかなり増えたように思えたからです。だから、私はもっと先に行きたいっていう目線でしたね。次なる世界として定めたのが『Persona』だったんです。また違うフェーズに行ってみんなを驚かせたいなって。ツアーをやらないというのも決めていたので、それまでの殻を破るような作品にしたかったんですよね。ただ、振り返るとその原動力は、やはり私の内なる反逆だったのだろうと今は思います。

――具体的にはどのように制作を進めたんですか?

浜田:もうプロデューサーは必要ないと思いました。最初の渡米からすでに10年近く経過して、ある程度ノウハウや取り組み方などを学ばせていただいたので、『Persona』からは自分でやろうと決めました。今と同じような丁寧さで作り始めたきっかけのアルバムでもあると思います。それまでの私のあり方に自ら決別しつつあった時代ですね。『Anti-Heroine』でビル・ドレッシャー(ミックスエンジニア)と出会って、新しい制作方法が見えたんですね。今に繋がっている、私とビルを軸とした制作方法です。

 スタッフも含めて、多くの人が浜田麻里らしい明るくてパワーのある曲をやってほしいのは重々わかっていました。それでも、どうしても先に行く必要があったんです。ファンの方でも、それを何となくわかってくださる方と、全然受け付けない方にはっきり分かれたような記憶がありますね。前作の流れもあって売れたんですけど(オリコンチャート2位)、何となく「やっぱり伝わらないものだなぁ」という印象だったと思います。“深く掘り下げたクオリティ重視の作品=大人しくなった”と感じる人が多いのだなと。近しいスタッフからは、ちょっと揉めたときに「浮世離れしてる作品だ」とか、否定的なニュアンスの言葉をボソっと言われた記憶がありますね。周りの誰もが、「この仕事をやっているのであれば、なるべく多くの人たちが買ってくれるような曲に寄せて、もっと売れたいと思うのが当然だろう?」っていうような価値観があるわけですよね。でも、自分はもう全然違う精神世界にいたんです。ビジネスパーソンとしては失格かもしれませんが、気持ちは揺らいでなかったんですよね。音楽は確かにビジネスでもあるけれど、私にとっては作品であり、表現なんです。音楽創作を仕事にしている人間にとって、ビジネスとしてレコード会社に還元していく時期と、自らのアーティスト性に焦点を絞る時期、その2つのバランスがとても大事だと思うんです。どちらが欠けても息切れしてしまう、私はそう感じます。アルバムに参加してくれたミュージシャンたちは高く評価してくれました。1曲目「Luna Sympathy」のリズム録りのとき、ベースのエイブラハム・ラボリエルがノリにノッて、フェイドアウトのタイムが過ぎても5分くらいセッションを続けたくらいに。

――そんな『Persona』のリリースを境にMCAビクターとの契約が終わり、ポリドールに移籍するという大きな流れが起こるわけです。

浜田:そうですね。この時代は、最初の移籍の頃の騒動どころではない厳しい環境に追い込まれていきました。MCAビクターの最後の辺りで、私とその周りの人々は、全てが噛み合わなくなっていたんです。やはり『Anti-Heroine』の頃からの心身の疲れと、海外戦略の未熟さや人に対する不信感が尾を引いていましたね。そんな中、私を長期で拘束する新契約書のドラフトが(MCAビクターから)事務所に届いたんです。ある夜、私のA&R(レコード会社の担当)が泥酔してアルバムを批判し、大暴れしたことをきっかけに、事務所のスタッフも「MCAビクターとこのままいい形で仕事を続けていけるのだろうか」という懸念を持ち始めたんだと思います。私はその時点でテレビにも出ない、音楽性はみなさんが思うところのマニアックに行き過ぎていて、多くの方が求めている浜田麻里像ではないとか、いろいろ不満が渦巻いていたんだろうと。やがて私は誰とも話をしなくなりました。A&Rとマネージャーは犬猿の仲でしたし、事務所のメインスタッフは、それまでのように派手に売れて歌番組にも積極的に出る私が好きだったんだと思います。それぞれの身を守るためもあってか、新たな何かを模索してたわけですよ……結果として、はっきり言ってしまえば、騙された形で移籍せざるを得なくなったというのが本当のところなんです。

 音楽業界で一番の実力者だった方から引き抜きの働きかけがありました。でも私は当時、MCAビクターから移籍をしたいとは全く考えていなかったんです。一人だけ、親身になってくれていた管理職の方もいましたので。いろんなフラストレーションはありましたが、それは内輪のことだし、根本が崩れてないのなら全然構わないんですよ。けれど、私が全く了解をしていない段階で、新聞に“浜田麻里移籍”と大きく載ってしまいました。私は一応、事務所の代表の一人でしたから、もう後には引けませんでした。それは、もっと大きな安定を望んだ事務所スタッフによる企みだったのか、別の誰かの作戦だったのか、いまだにわからないんです。そして、ポリグラムグループからの好条件の提示があり、最初はとても大事に扱っていただきながら『Philosophia』の制作に入りました。けれどある日、突然それが激変したんです。

 そのタイミングで業界の再編があって、ユニバーサル ミュージックができたんですね。つまり、MCAビクターと移籍後のレーベル(ポリドール)が同じグループになることを意味するわけです。レコーディングの合間に一時帰国した私は、そのことを六本木のレストランでの食事中に知りました。例の「キッチンに置かれたスケジュール手帳」のマネージャー(※1)から、紙ナプキンで知らされました(笑)。そっと差し出された紙ナプキンに、新たに決まったグループ内の関係図がポールペンで書かれていたんです。そこには2社の社長のお名前が同列に並んでいました。私の移籍について元MCAビクターのトップが激怒しており、私のアーティスト生命を終わらせる勢いだったと聞いています。それで社内の空気が一変したということです。ちょうどそれが『Philosophia』(1998年10月)の制作の後半ですね。

 その話には続きがあります。私の事務所が、いわゆる最大手と言われるような事務所の傘下に入ることが、勝手に条件として決められていたんですね。でも、私はそれをお断りしました。テレビ業界に太いパイプを持つ会社にお世話になったところで、何も貢献できないと思ったからです。それが当時、事務所の社員が辞職した理由です。大きな事務所の傘下に入ることをスタッフは楽しみにしてたんでしょうね。もしかしたら、事務所のもう一人の代表だけは、こうなった以上この業界の最前線で私とともに生き残っていくのは難しいと考えたのかもしれません。

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