ボビー・コールドウェル、ブルー・アイド・ソウルとしての多大な功績 ボブ・マーリーとの意外な接点&ヒップホップへの影響も

 時代を超えるヒット曲「What You Won't Do For Love」などの楽曲で知られているボビー・コールドウェルが3月14日に亡くなった。71歳だった彼は近年闘病生活を送っており、フルオロキノロン毒性症候群で亡くなったと妻 メアリー・コールドウェルがTwitterで明かした(※1)。

 1951年にニューヨーク・マンハッタンで生まれ、マイアミで育ったボビー・コールドウェル。不動産屋であった彼の母は、ボブ・マーリーに物件を売ったこともあり、ボビーはボブ・マーリーと友人になる。マイアミという土地とボブ・マーリーから受けた影響について、ボビーは以下のように語っている。

「マイアミは多くの音楽が混ざった場所だった。ハイチ音楽、レゲエ、ラテンポップ、R&B文化など、とても多様化した街だった。不動産エージェントだった母がボブ・マーリーにマイアミの家を売ったこともあったし、私は友人の紹介でボブ・マーリーと友達になったんだ。(ボブ・マーリーの故郷である)ジャマイカを訪れたことがあるような気がするほど、私たちは親しくなった」(※2)

 1970年代前半にはロックンロールのパイオニア、リトル・リチャードのリズムギタリストとして音楽キャリアをスタートさせる。彼のバンドを辞めてからは、数年間ロサンゼルスで契約してくれるレコード会社を探しつつ、バーで演奏をしながら生活費を稼いでいた。結果的にロサンゼルスでレコード契約ができなかったボビーは、「意気消沈しながら尻尾を巻いてマイアミに帰った」と当時のことをコメントしている(※3)。

 マイアミの実家に戻ったボビーは、母に渡された地元紙がきっかけで人生が変わったと明かしている。その地元紙では、当時ブレイクしていたマイアミ出身のバンド KC & The Sunshine Bandが取り上げられており、母にそのレーベルであるT.K. Recordsをおすすめされたのだ。T.K. Recordsとのミーティングをしたボビーは、その2日後にレコード契約をゲットしたようで、「オフィスに入った瞬間、全てが合致したように感じた。そこには私が求めているものがあった」と語っている(※4)。

 1978年にデビューアルバムをレコーディングしたボビーだが、T.K. Recordsの代表 ヘンリー・ストーンに「アルバムは好きだけど、ヒット曲がない」と言われ、急いで2日間で制作した曲が「What You Won’t Do For Love」であった(※5)。シンガーが白人であるKC & The Sunshine Bandをブレイクさせた経験のあるT.K. Recordsは、黒人層が聴くラジオ番組からサポートされる重要性をわかっていた。そのため、アルバムジャケットでも顔を映さず、しばらくボビー・コールドウェルが白人ということを公にしていなかったのだ。

ボビー・コールドウェル「What You Won't Do For Love」

 デビューアルバム『What You Won't Do For Love』がリリースされ、ナタリー・コールのツアーオープニングを務めたときに、多くの人がボビー・コールドウェルが白人であることを知った。ボビーは以下のように語っている。

「クリーブランドでツアー初日を迎え、7,000人ほどの黒人客がいるなか、私は唯一の白人だった。みんな“ソウルブラザー”ボビー・コールドウェルを聴きに来ているのに、私が登場したとき、会場は静まった。みんな『なんだこれ?』みたいな感じになったけど、演奏をして10分ぐらい経った頃、私は会場の心を掴むことができた」(※6)

 当時、しばらく素性を隠した状態でR&Bやソウルのラジオ番組でプレイされていたため、今でもボビーが白人だと知らない人は多いようだ。YouTubeには「What You Won't Do For Love」に対する多くのリアクション動画がアップされており、白人ということを知り驚いている様子が頻繁に見受けられる。

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