Nirvanaの楽曲が映し出す“ヒーローの裏側にある苦悩” 映画『ザ・バットマン』『ブラック・ウィドウ』から考察
これまでティム・バートン、ジョエル・シュマッカー、クリストファー・ノーランと、数々の名監督が挑んできた『バットマン』シリーズに新たな伝説を刻んだ『THE BATMAN-ザ・バットマン-』。本作では『クローバーフィールド/HAKAISHA』や『猿の惑星』シリーズを手掛けるマット・リーヴスが監督・脚本を務め、若き日のブルース・ウェインを題材に、バットマンに根付く葛藤や苦悩を、かつてないほど現実的に切り取った斬新な作品だ。メインヴィランであるリドラーを追うミステリー仕立てのストーリーに加え、バットマン自らが“恐怖の象徴”となり、悪党を追い込んでいくというサスペンス性も本作の魅力の一つである。
犯罪と暴力が横行するゴッサム・シティを舞台に、フィルム・ノワールの世界観を作り上げた本作は、アメコミ映画らしからぬ、終始薄暗い雰囲気が漂っている。それを際立たせているのは、本作のテーマ曲ともなるNirvanaの「Something In The Way」だ。本編ではオープニングとラストの重要なシーンの2回に渡り流れ、この曲なくして本作は生まれなかったに違いない。映画公開後、アメリカのSpotifyでは再生回数が1200%アップし、デイリーランキングで2位まで急上昇したことも記憶に新しい。
しかし、Nirvanaの楽曲を大々的に起用したヒーロー映画はこれだけではない。DC作品と共にアメコミ映画の二大巨頭と評されるマーベル作品では、『ブラック・ウィドウ』(2021年)で、マリアJによる「Smells Like Teen Spirit」のカバーがオープニングで使用されている。同じくマーベル作品である『キャプテン・マーベル』でも別楽曲(「Come As You Are」)が使用されていたが、映画の本質的な部分を象徴するものとしての印象強さは、前者の方が勝るだろう。
Nirvanaといえば、衝動的で粗削りなバンドサウンドと、泥臭くも美しいカート・コバーンの唯一無二のカリスマ性で、90年代グランジシーンを大いに盛り上げた歴史的バンドの一つだ。
シンプルなのに一度聴いたら忘れられないメロディ、鬱憤をすべて吹き飛ばすような荒々しいプレイ、怒りや疎外感、孤独、焦燥、悲しみ、愛、そのすべてを露わにする歌詞。まさに魂に焼き付くその音楽は、まるで自分の気持ちを代弁してくれているかのようであり、優しい言葉だけでは埋められない心の隙間をそっと埋めてくれるような救いでもある。そう感じたことがある人も多いのではないだろうか。
そんなNirvanaの楽曲は、前述した作品群において、輝かしくたくましいヒーロー像の裏側にある“人間性”を引き出す代弁者として選ばれたのではないだろうかと考える。わざと触れるにはいささか野暮なようで、言葉にすれば陳腐となってしまいそうな繊細な感情や情景に、音楽を通じて共鳴することで、ヒーロー達をより深く知る術となってくれるのだ。
『THE BATMAN-ザ・バットマン-』を制作するにあたり、リーヴスは「Something In The Way」を聴きながら脚本を書き、カート・コバーンを思い浮かべながらブルース・ウェインを描いた(※1)。そしてリーヴスの中のブルース像に見事当てはまったのが、ロバート・パティンソンだ。彼が主演を務めた『グッド・タイム』(2017年)を観たリーヴスは、感情的でどこまでも人間臭く、絶望的な環境下でも生きるためにもがき続けるパティンソンの姿に心を掴まれたという(※2)。そうしてNirvanaの影響を大きく受けた本作は、ブルースを“プレイボーイの大富豪”というイメージから解放し、“孤独に生きる世捨て人”に塗り替えた。
楽曲の歌詞では、橋の下の小屋を住居に、雨水を飲み、草と魚を食べて生きながらえる様が綴られている。ホームレスを彷彿とさせる情景描写だが、両親の殺害事件をきっかけに世間と切り離され、朽ちかけた大豪邸で強い孤独と疎外感を抱えて生きるブルースの姿そのものともいえる。そして“感情のない魚”は、ブルースにとっての“ゴッサム・シティに生きる悪党共”であり、悲劇を生んだゴッサム・シティに対する復讐を大義名分に掲げ、自分を律してきたのだ。
繰り返される〈Something in the way〉のように、バットマンは何度も自分自身に正しさを問いかけては、答えが見つからないもどかしさに陥り、わからないままにもがいてきた。それは、単なる復讐者からゴッサム・シティを守るヒーローとしての自覚が芽生えようとも変わることはない。この曲は、正しさを求めて自問自答を繰り返し続けるダークヒーローの宿命をも象徴しているのだという新解釈を、ラストシーンでもたらすのだ。