矢部達哉が語る“指揮者不在”の「トリトン晴れた海のオーケストラ」 その意義と演奏家としての矜恃

矢部達哉、演奏家としての矜恃

トリトン晴れた海のオーケストラ ©大窪道治

ベートーヴェンが「第九」のような曲を作った背景も伝われば

ーー今回リリースされるアルバム『熱狂ライヴ! ベートーヴェン:交響曲第九番《合唱付》』は、晴れオケが2018年より行ってきたベートーヴェンの交響曲全曲演奏チクルスの集大成ともいえる、歴史的ライブを収録したものです。実際にお聴きになって、どのような感想を持ちましたか?

矢部:僕がこういうことを言うのは気恥ずかしいのですが、他にちょっと類例がないようなユニークな「第九」になったと思っています。ミックスの段階で聴かせてもらったのですが、第一楽章を聴き終えた時に思わず「これ、本当に指揮者がいないんですか?」と尋ねてしまったほどです(笑)。うまく言葉にできないのですが、自分はステージで演奏している時からもう「弾いている」というより「聴いている」意識でいるのかもしれない。先ほどの「放課後の校庭」の例えにも繋がりますが、ステージ上であれこれ指示を出しながら僕自身が何かを「作っている」というよりも、その場にいて「見守っている」感覚に近い。事前に種を蒔くのは僕ですが、花を咲かせるのは他の演奏者たちで、僕自身はそれをただ眺めている感覚なのかもしれないですね。

ーーなるほど。

矢部:それに、僕だけでなくメンバーが口を揃えて「今日、これでキャリアが終わってもいいと思った」と言ってくれたのも嬉しかったですね。そこまで思えるくらいの演奏ができるのは本当に幸せなことじゃないですか。指揮者がいない中でタイミングを合わせるくらいのことなら、このレベルの演奏家が集まれば簡単にできるんですよ。しかしながらベートーヴェンがこの楽曲の中で何を言いたかったのか、どんな苦しみ、あるいは喜びを音に刻んだのか。そういった本質的なメッセージを、バックボーンがそれぞれ違うメンバーと共有できたという意味では、他のどの楽団も到達していない領域までいけたのではないかと思っています。

ーーところで、これまでクラシックはずっと「敷居の高い音楽」とされてきました。しかしここ数年は、特に若者たちの間でクラシックが身近な存在になりつつあると個人的に感じているのですが、矢部さんはいかがでしょうか。

矢部:スマホやサブスクが普及したことによって、古今東西の音楽が本当に気軽にいい音で聴かれるようになりましたよね。例えばCMや街中で流れていて心に引っ掛かった曲を、その場で検索し聴くことができる。そのことによって、クラシックを聴くことへのハードルが以前よりも確実に下がったと思います。同時に、ここ最近日本では若い音楽家たちがYouTubeなどを通じてものすごく活躍していて。それが、彼らと同世代の人たちを惹きつけ、クラシックとの距離をぐっと縮めてくれているのも感じますね。

 私たちが暮らすこの現代社会において、「静寂」を求めることってすごく難しいんですよ。どこにいても何かしら騒音が耳に入ってくるし、コンビニや駅の構内、ホテルのエレベーターでさえ音楽が流れている。でもコンサートホールへ行けば、席に座って指揮者が出てくるまでの張り詰めたような「静寂」を味わうことができます。そうした非日常的な体験を、若いリスナーにもっと知ってもらいたいですね。

ーー晴れオケによる本作『熱狂ライヴ! ベートーヴェン:交響曲第九番《合唱付》』は、年末の風物詩としてイメージづけられている「第九」の新たな魅力を発見することのできる内容でもあるし、「第九」が本来持っていた「平和」というメッセージについて今一度、考える意味でも重要な作品だと思います。

矢部:ありがとうございます。その時の演奏がこういう形で残され、リリースされることで多くの方たちに聴かれたら、その思いは少しでも伝わるのではないかと僕も思っています。そもそもこのコンサートは2020年6月に、東京オリンピックに合わせて開催される予定でした。オリンピックは「平和の祭典」であり、そこで「第九」を演奏することに意味があったのですが、結局コロナ禍の影響で延期になってしまい、昨年12月にようやく開催の運びとなりました。そういう意味では、コロナ禍で多くの人たちが傷つき、そこで改めてこの「第九」が流れることの意味、何のためにベートーヴェンがこういう曲を作ったのか、その背景も伝わったらいいなと思っています。

ーーなるほど。

矢部:こういう状況になると、人間はなんて無力なのだろうと思います。音楽家にできることなど、果たしてあるのだろうか? 何一つないのではないか? という気持ちにもなる。ただ、過去に起きた戦争や革命、災害を乗り越え何十年、何百年も受け継がれてきた音楽の普遍的な強さというものは否定できません。そこに何かしらの理由もきっとあるはずだと思うんですよね。

 場所も時代も人種も関係なく、人間が共通して持つ根源的な感情は確かにあり、ベートーヴェンはそれを「音楽」という形で表現することに成功した、人類の歴史の中でも数人しかいない作曲家の一人だと思います。時の流れとともに、演奏家はどんどんいなくなり、また次の演奏家へとバトンタッチしていきますが、ベートーヴェンの音楽はきっとこの先の未来も残り続けていくことでしょう。僕たち演奏家一人ひとりは無力であっても、作曲家と聴き手の仲介者として、その音楽を後世に伝えていく重要な役割がある。人々の心を動かす音楽に、少しでも貢献することができればいいなと思っています。

■リリース情報

『熱狂ライヴ!ベートーヴェン:交響曲第九番《合唱付》』
発売:2022年3月9日(水)
価格:¥3,300(税込)
<収録曲>
ベートーヴェン:交響曲第9番 二短調 Op.125《合唱付》

■番組情報
『「指揮者なしのオーケストラ 第9に挑む!」
~究極のベートーベンを追い求めて~』
・放送日時
BS4K 3月26日(土)0:10-1:39 (25日・金曜深夜)
詳細はこちら
https://www4.nhk.or.jp/P7528/

オフィシャルサイト
https://kingjazzcla.com/release/10065

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