宇多田ヒカル『BADモード』の風通しの良さ 転回とも取れるクリエイティブ面での変化

 2022年早々に届けられた宇多田ヒカルのニューアルバム『BADモード』。『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の主題歌としても話題を呼んだ「One Last Kiss」をはじめ、『初恋』(2018年)以降リリースしてきた粒ぞろいのシングル曲を余さず盛り込んだ1枚だ。そんな『BADモード』は、活動休止を経た2010年代後半の活動から緩やかに距離をとったようなたたずまいを持っている。

言葉やグルーヴに感じる『BADモード』での転回

 たとえば『BADモード』は、『Fantôme』(2016年)以来取り組んできた「日本語で歌う」ことに区切りをつけるかのように英語と日本語が共存するバイリンガル・アルバムであるし、あるいは『初恋』で試みていた生演奏を通じた複雑でニュアンスに富むグルーヴの表現から一転した、打ち込みの比重を高めたエレクトロニックなアプローチに貫かれたアルバムでもある。クリエイティブな側面から考えると、これは転回と呼んでもよさそうな変化だ。

 『初恋』はおそらく2010年代の日本のポップ・ミュージックにおいてもっとも重要な一作に数えられるだろうが、言葉を通じて描かれるものにせよ、あるいはサウンドにせよ、他を寄せ付けまいとするような凄みがあった。同作収録の「初恋」や「あなた」のように、過剰なまでにドラマティックな〈あなた〉との物語と言葉に満たされた楽曲にはいまだに当惑さえ覚える。

 対して『BADモード』は、〈あなた〉や〈君〉との関係という主題を多くの部分で維持しつつも、〈運命〉や〈人生〉のような言葉が似合うようなドラマチックな物語から徐々に離れている。その極めつけとして、「気分じゃないの(Not In The Mood)」では、もはや言葉は風景と出来事を描写する鏡となって、物語の代わりに、ある雰囲気を伝える媒体のように機能している。目に映ったものを淡々と描写するかのようなこの詞は、締め切りに追われてたまたま生まれたものだというが(※1)、結果として『BADモード』の転回をよくよく代表している。

「気分じゃないの(Not In The Mood)」

 しかしそうした言葉の変化以上に顕著なのは、サウンドの質感、テクスチャへの傾倒だ。メロディやハーモニー、リズムといった音楽を構成する大きな要素以上に、その手触りこそがこのアルバムの重心となっている。

 たとえば冒頭を飾る表題曲「BADモード」は、5分間のランニングタイムを通じて、ダンスフロア仕様のSteely Danとでも言いたくなるような前半から、電子音や環境音、ストリングスのサウンドが絡み合いながら風景を一変させる中盤のインストパートを経て、ドラムもベースもブラスバンドもまったく異なる質感を帯びだす。こうしたテクスチャの変化が楽曲をドライブさせているのだ。この点に関しては、この曲で宇多田ヒカルに加えて共同プロデュースに名を連ねるFloating Points(フローティング・ポインツ)ことサミュエル・シェパードの貢献も大きいだろう。

宇多田ヒカル『BADモード』

 同じくフローティング・ポインツが参加する「Somewhere Near Marseilles ―マルセイユ辺り―」は12分弱にも及ぶ長尺のダンストラックで、フローティング・ポインツの初期作品を思わせるややスロー気味な4つ打ちのうえに、少しトリッキーな譜割りの詞がのる本作のハイライトだ。この曲もまた、サウンドの微妙な抜き差しやパラメーターの変化がもたらすテクスチャの動きによって駆動するものだ。もともとは4分にも満たなかったデモがこれほどの長尺になったのは、長過ぎるのではというフローティング・ポインツの心配をよそに宇多田自身が決めたことだったというのも興味深い(※2)。このエピソードについて、着想をポップソングらしいフォーマットへと落とし込むことよりも、次々に表情を変えるテクスチャに浸ることを選んだ、と思い切ってパラフレーズしても良いかもしれない。

「Somewhere Near Marseilles ―マルセイユ辺り―」

 ここまで名前を挙げた3曲(「気分じゃないの(Not In The Mood)」、「BADモード」、「Somewhere Near Marseilles ―マルセイユ辺り―」)はいずれもフローティング・ポインツの関わったものだが、他の楽曲にも同様のことが指摘できる。たとえば、A.G.Cookが共同プロデュースを務めた「君に夢中」や「One Last Kiss」は、クレッシェンドするように歪みを増して激しくなっていくテクスチャの妙が楽曲の大きな推進力になっている。また、小袋成彬が共同プロデュースを務める数曲のなかでも、「誰にも言わない」は一つひとつのサウンド(それぞれは実は結構そっけなかったりする)が重なり合って作りだす全体のテクスチャがだまし絵にも似た手触りを持っていて、聴く者の方向感覚を失わせるようなところがある。

宇多田ヒカル『One Last Kiss』
「誰にも言わない」

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