嵐、米津玄師提供曲「カイト」は応援ソングとしてイビツな構造に? 強い普遍性と“今の嵐”が歌うことで生まれる感動
嵐の通算58枚目となるCDシングル『カイト』が発売された。表題曲は“アスリートやこれからの時代を担っていく若い世代を応援する楽曲”として米津玄師が書き下ろした一曲。先んじて昨年大晦日の『第70回NHK紅白歌合戦』にて初披露されていたが、CDは発売されておらず、半年以上経って今回ようやくリリースされた。
この曲は、応援ソングとしては非常にイビツな構造をしている。聴き手を奮い立たせるパワフルな分かりやすいメッセージもなければ、体を動かしたくなるようなビートもない。しかし、そのイビツな作りが、この曲を単なる一般的な応援歌の域から、長く歌い継がれ得る普遍的な名曲のレベルまでへと押し上げる要因になっているように思う。そして、そうした普遍性を持っていながらも、同時に現在の嵐が歌うことで生まれる感動も用意されている。
まず、そのイビツさが表れているのがサビだ。そこでこの曲の主人公は〈君〉のために歌を歌うが、「がんばれ」や「諦めるな」といった直接的な応援表現は用いない。
(Cメロ/サビ)
〈風が吹けば 歌が流れる 口ずさもう 彼方へ向けて
君の夢よ 叶えと願う 溢れ出す ラル ラリ ラ〉
一応、夢よ叶えと願ってはいるものの、口ずさんだのは歌が流れたからであり、歌が流れたのは風が吹いたから……と言い回しはどこか自然発生的で客観視点。努力や勝利といった言葉もなく、ただ〈君〉と溢れ出した歌との関係だけがそこにある、といった雰囲気だ。
米津がこの曲に込めた思い
なぜこのような、なんとなくふわっとした作りをしているのだろうか。それを考える上で手掛かりとなるのが、作者がこの曲に込めた思いにある。嵐がこの曲を初披露した際、米津は以下のようなコメントを残していた。
「この「カイト」という曲を作るにあたって、色んなことを考えましたが、その内の大きなひとつは、今の自分は誰かに生かされてきたということでした。自分の身の回りにいる人間や、遠くで自分に影響を与えて下さったたくさんの方々、そのすべてにちょっとずつちょっとずつ許されながら、お前はここで生きていてもいいんだと、そういう風に許されながら生きてきたのが今の自分だと思っていて」
この話が色濃く表れているのが、序盤の歌い出しや、〈母〉や〈父〉といった”人物”の話題へと移り変わっていくBメロである。そこでは、主人公が幼い頃に憧れた存在であったり、あるいはその後の人生で関わってきた人びとなどが、呼び起こされるようにして回想される。
(Aメロ)
小さな頃に見た 高く飛んでいくカイト
離さないよう ぎゅっと強く 握りしめていた糸
憧れた未来は 一番星の側に
そこから何が見えるのか ずっと知りたかった
(Bメロ)
母は言った「泣かないで」と
父は言った「逃げていい」と
その度にやまない夢と
空の青さを知っていく
要するに、この曲に込められているのは、自分自身を形作るすべてへの感謝のようなものなのだろう。いわゆる音楽的なルーツなどではなく、そうしたものも含めたもっと広い意味での“生きていく上で影響を受けてきたすべて”に対する意識だ。
そして、この曲でもう一つ印象的なのがラストの〈ラル ラリ ラ〉である。言わずもがなこのフレーズは「パプリカ」にも登場する表現であり、この曲で最も“米津っぽさ”を感じるフレーズだ。
つまり、この曲における主人公の(あるいは作者の)唯一とも言える自発的な自己表現の瞬間は、最後の最後になってようやく訪れる。憧れからスタートし、長い年月をかけてさまざまな人物や物事から影響を受けてきた主人公が、今〈君〉のために“自分の歌”を歌っている。その光景を、この曲はある種客観的に、大きな歴史の中の小さなひとつの点として描き出す。その長い長い時間が背景に存在しているということ自体が、(分りやすい励ましの言葉を使わずとも)もうすでに心を奮い立たせるべき事実だというのだろう。だから、この曲は安易に直接的な応援歌のスタイルをとらないし、歌っている自分をなかば俯瞰的に眺めるような表現で綴っているのだ。