SEEDAがラップシーンに与えた衝撃とは何だったのかーー日本語ラップバブル期~『花と雨』誕生まで振り返る
2020年1月、SEEDAの4枚目のアルバム『花と雨』を基にした同名の映画が公開された。同作を日本語ラップにおける名盤という知識だけを備えて映画を鑑賞した者も多かったはずだ。だからこそ『花と雨』および当時のSEEDAがシーンに与えたインパクトを、当時のラップシーンの流れとともに振り返りたい。
時を日本語ラップバブルの末期まで遡る。2003年にリリースされたキングギドラ『最終兵器』は、それまでヒットしたポップな日本語ラップとはタイプが全く異なっていた。Jポップ化するラップ、ひいては社会に撃ち込むようなリリックとサウンドは、正に最終兵器であった。代表曲「公開処刑 feat.BOY-KEN」にて、〈英語ばっか使う無国籍ラップ/日本語に心動くべきだ〉というK DUB SHINE(現:Kダブシャイン)のリリックは、当時までメジャーに出ることのなかったハードコアラップの需要を見事に言い表していた。事実、アメリカでも名盤とされるラップは、当事者のリアリティを俗っぽさに富んだローカルな表現でライミングする点が魅力だった。だからこそ、同じ強度を彼らは自分たちのラップにも求めた。膨れ上がっていた日本語ラップ愛好者と、アメリカと同等のリアルさを求めるハードコアラップの潮流が合わさった結果、日本独自のラップを探究する流れがこの時期より一層強まった。その当時アンダーグラウンドシーンを賑わせていたのが漢 a.k.a GAMI率いるMSCだったことも必然と言える。新宿の裏社会に漂う空気感を、日本語独特の硬い押韻でラップにした彼らのスタイルは強い人気を博した。彼らの代名詞といえる『宿ノ斜塔』が出たのも2003年末だ。少し時期が前になるが三軒茶屋エリアを拠点とする般若が所属していた妄走族も、日本の不良という既知の存在をヒップホップで再生産し人気を博していた。みんながアメリカのコピーに終わらないラップを心から求めていた。
同じ頃、アメリカではエミネムやJay-Zがすでに伝説となっており、50centとカニエ・ウェストがトップ争いをする下でOutKastやNellyを筆頭に将来全米を席巻する南部のサウンドがヒットしはじめていた。これらのヒップホップに魅了された者からすれば、当時の日本語ラップシーンは同じジャンルにも関わらず、全く違うタイプの音楽に聴こえたはずだ。リアリティに拘る音楽を構築する作業は、海外の音楽をローカライズする工夫とは、似て非なるものであった。