指原莉乃がアイドルとして成し遂げた偉業 卒コンで語ったラストメッセージから紐解く

指原莉乃がアイドルとして成し遂げた偉業

 女性アイドルにとって、卒業コンサートとは活動の集大成であり、これまでの功績を凝縮した門出のステージだ。4月28日、横浜スタジアムで開催された『指原莉乃 卒業コンサート ~さよなら、指原莉乃~』。2005年に始動したAKB48グループは、前田敦子、大島優子と多くのレジェンドを生んできた。「平成、超楽しかったです!!」と言い残しステージを去る指原は、平成最後にアイドル史へと刻まれる紛うことなきアイドルだった。

 しかし、3時間半にも及ぶコンサートを観終えた後、「果たして、指原莉乃とはなんだったのか?」という、一言では形容し難い疑問が浮かんだ。王道のアイドルと賞賛する声もあれば、異端のアイドルと例えられることもある指原。時にはバラエティ番組で活躍するタレントとして、=LOVEを始めとしたプロデューサーとして、HKT48の劇場支配人として、あらゆる場面において特異な立ち位置にいる彼女は、日本の芸能界においても極めて稀な才能の持ち主だ。HKT48というグループに所属しながらも、「指原莉乃」という巨大な看板を形成していった。

 指原が卒業コンサートに選んだのは、複数披露も含めて38曲。HKT48メンバーだけでなく、AKB48グループから親交の深いメンバー、卒業生から同期の北原里英、“さしまゆ”として親友でありライバルでもあった渡辺麻友、初期HKT48を共に支えた多田愛佳らを迎え、アイドル人生の11年間を振り返っていった。Not yetのほかにも、指原莉乃ソロとしての「それでも好きだよ」を踏まえれば、どれだけ彼女がアイドルとして多岐に渡る表情を持ち合わせていたのかが見えてくる。モーニング娘。に憧れ、アイドルオタクを経て、AKB48に加入した指原。歌い踊り夢を与える王道アイドルを目指したつもりが、卒業ソング「私だってアイドル!」では〈スキャンダル 心配かけてしまった〉と歌う。しかし、そう笑い飛ばせることも、彼女の紆余曲折なアイドル人生を物語っている。

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 指原を慕う松岡はなからの手紙、IZ*ONEへの専任でコンサートに参加できなかった宮脇咲良、矢吹奈子による涙ながらのVTRコメントには、彼女らにとって指原が目指すべき指針であったこと、活動する場所は違えどそれぞれの道で意志は続いていくことが示されていた。

 指原にとってHKT48とは宝物。2016年に公開されたドキュメンタリー映画『尾崎支配人が泣いた夜 DOCUMENTARY of HKT48』の中で、指原は「人のためにと思うようになりましたね。HKT48をどうにかすることが、私の感謝の伝え方だと思うので」とAKB48からHKT48に移籍した当時の思いを語っている。卒業コンサートの中で発表された、指原による全曲書き下ろしのHKT48劇場の新公演『いま、月は満ちる』は、ファンやメンバーに対する彼女なりの感謝の伝え方であり、恩返しだ。「一から作り上げていく公演を知らないままな子が多いのが私は悲しくて」「年に1枚のシングルしか出せないのはだめだ」というのは、プロデューサーとして、劇場支配人としての言葉。手のかかる後輩・村重杏奈にAKSからTWIN PLANETへの事務所移籍を持ちかけたのも、彼女なりの最後の優しさだ。

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