「リズムから考えるJ-POP史」連載第1回
J-POP史を考える新連載 第1回:リズムをめぐるアプローチが劇的に変化した2018年
こと音楽に関していえば、2018年は2010年代で稀に見る当たり年だったのではないか。日本国内に限ってみても、新鋭からベテランまで、次から次へと“新しいはじまり”と“集大成”を同時に予感させるような作品が続いた。それはあたかもこの1、2年にわたって日本を覆っている例の「平成最後の……」というムードと同期しているかのようで、よかれあしかれ時代の空気感を見出してしまいたくなる。いや、よかれあしかれというか、むしろはっきりと悪癖というべきかもしれない。とはいえ、そこかしこにはびこる実態のない、まがいものの未来志向や近過去への反動的な退行とは違って、それぞれの作品はたしかに説得力を持って時代の節目を自らに刻みつけている。必要なのはその痕跡や徴候に耳を傾けることだ。
たとえば平成元年生まれのシンガーソングライター・折坂悠太は、その名も『平成』という2ndアルバムをリリースした。“いま、ここ”を背負うようなタイトルとは裏腹に、そこで綴られる音楽は時代錯誤的で、文語調の詞からシアトリカルな語りやシャウトまでを横断する歌唱、プレモダンのポップミュージックとしてのジャズやカントリー、ラテン、あるいは民謡をごった煮にした音楽性を披露した。さらに、たとえば名古屋のビートメイカー、RAMZAを起用した表題曲にみられるきわめて洗練されたサウンドデザインは、アコースティックなサウンドとエレクトロニクスが見事に融合した先鋭性も保っている。結果として浮かび上がってくるのは、1960年代以降の日本語ロックの勃興と発展によってポップスの世界からその影を薄れさせていたさまざまなポップスのかたち、また、うたのかたちの多様性だ。
あるいは、2010年代以降にふたたび脚光を浴びた「都市」とか「郊外」といった主題を歌う新世代のバンドの中でも、一作ごとに着実な変化を見せていたceroは、『POLY LIFE MULTI SOUL』をリリース。ポリリズムや変拍子があふれるダンスビートや、マジックリアリズム的なレトリックは、アフロ、ラテン、そして現代アメリカのカルチャーを咀嚼した新たなポップスの可能性を切り拓いた。リズム隊から言葉の配置まで丹念に編まれたグルーヴが、クライマックスたる表題曲の中で力強い4つ打ちのハウスビートに接続されるこのアルバムは、彼らの新たな代表作と言える。
興味深いのは、「『外』としての海外(往々にしてそれは英米である)と『内』としての日本」という単純な二項対立を相対化するかのような雑種性を湛えていることだ。奇しくもDA PUMPによる「U.S.A.」が大ヒットを記録した年に、きわめて意味深な傾向だ。しかしその「U.S.A.」にしても、イタリアで制作されたユーロビート曲のカバーとして、沖縄出身のリードボーカルが日本語でアメリカへのリスペクトを歌い上げるという倒錯的な背景を持っていたことも忘れてはいけないだろう。「音楽に国境はない」とはどういうことかと言うときにこれほど便利な例はない。とりわけポップスにおいてこのクリシェは、音楽を通じたコミュニケーションの普遍性に対するロマンチックな憧憬としてではなく、こうした雑種性やある種の倒錯が一曲の中にさまざまな痕跡として表れることの端的な描写だ。