GOMES THE HITMAN 山田稔明が明かす、結成25年の歴史と再始動に至った背景

山田稔明が明かす、完全復活までの軌跡

 GOMES THE HITMANが本格的に復活した。2014年に7年ぶりにライブ活動を再開したGOMES THE HITMANだが、彼らがライブ活動停止前にリリースした2000年代の3作品『mono』(2002年)、『omni』(2003年)、『ripple』(2005年)を収録したボックスセット『00-ism [mono/omni/ripple]』が7月25日にリリースされるのだ。さらに同日に、13年ぶりとなるレコーディング作品『SONG LIMBO』もリリースされる。

 振り返れば、1999年にメジャーデビューしたGOMES THE HITMANのCDを初めて見たのは、当時の渋谷HMVでのことだった。「ポスト・フリッパーズ」と呼ばれていたGOMES THE HITMANは、次第にその音楽性を変え、今回『00-ism』に収録される作品群のような深化を見せることになる。

 しかし、2007年を最後にGOMES THE HITMANはライブ活動を停止。山田稔明はソロ活動や他のアーティストへの楽曲提供、堀越和子はソロ活動やバンド活動、高橋結子はさまざまなバンドへの参加、須藤俊明はジム・オルークや石橋英子などのバンドへの参加と、それぞれの道を歩むことになる。

 言い換えると、GOMES THE HITMANのメンバーは誰ひとり音楽活動を辞めることはなかった。そして山田稔明は、2013年の傑作ソロアルバム『新しい青の時代』のアナログ盤化がクラウドファンディングで実現したばかりだ。

 2000年代のGOMES THE HITMANとはどういうものだったのだろうか。そして、GOMES THE HITMANが今改めて復活したのはどんな理由があるのだろうか。山田稔明に話を聞いた。彼に会うのは、昨年の夏に吉祥寺のレコード屋でばったり会って以来のことだった。(宗像明将)

 「『mono』を作った時はどうかしてた」

山田稔明

ーーGOMES THE HITMANが結成25周年を迎えて、2000年代にリリースされた3枚のフルアルバムが『00-ism』としてリリースされます。どのようなきっかけだったのでしょうか?

山田稔明(以下、山田):もともと2000年代に<VAP>から出したアルバムがサブスクリプションサービスに入ってなかったんですよ。サブスクで聴けるようにしたいなと思って、当時のスタッフの方に相談したんです。すごく早急に対応していただいて、今年の1月にはシングルも含めてだいたい全部の<VAP>の音源がサブスクで配信されるようになったんです。ただ、1枚だけ2002年にインディーズレーベルから出した『mono』だけは触れられない状態になっていて、「どうにかしたいですよね」っていう話をしたら、<VAP>の方が「レーベル自体がもうないから難しいけれど、ちょっとかけあってみるよ」って言ってくださったんです。

ーー<QUATTRO DISC>ですね?

山田:そうです。で、当時のスタッフの方とお話する事が出来たようで嬉しい事に乗ってきてくださったようなので、これはもうリリースするタイミングだなと。実は僕はいろんなところと一仕事終えると疎遠になったりする事が多いんですけど、それらをひとつずつ軌道修正していくことを2010年代の目標にしてるんですよ(笑)。2014年にGOMES THE HITMANが活動再開したときにひとつ大きな修正の機会があったんですけど、そこから4年経って2個目の軌道修正ですね。

ーー活動休止前のGOMES THE HITMANの最後のライブはいつでしたっけ?

山田:2007年ですね。

ーー私もそれを見ているんですよね。2007年で止まっていたバンドが2014年から復活したわけですね。

山田:そうです。お会いした頃は、僕がソロをやったりGOMES THE HITMANをやったりしているタイミングだったと思うんです。「ソロってやっぱり楽しいな」と思いはじめてるときに、GOMES THE HITMANはリリースの予定もないので、どんどんそっちが尻すぼみになっていったんです。当時は活動休止とも何も言わずに、ただライブをしなくなったという感じで、そこから7年何もしなかったんです。2014年からライブを再開するようになったのは、メジャーデビュー15周年っていう「ここしかないぞ」っていうタイミングだったんです。そこからじわじわと年に2回ぐらいライブを重ねて、「今年は結成25周年なので何かできたらいいな」ってタイミングでこういうボックスを作ってくれることになったので、「これはちょっとお祭りだな」と思っています。『ripple』に続くニューアルバムとは銘打たないで、「GOMES THE HITMANの新録音盤」っていう、リハビリみたいな感じで1枚作ろうっていう企画がバンドの中にあったので、それともタイミングが合うし、永続的な何かのきっかけになるかなと思って、すごくしっかりリイシューさせてもらおう、と。

ーー『00-ism』と書いて「ノーティーイズム」と読むのはどのような意味があるのでしょうか?

山田:ゼロ年代を英語で言うと「00's」で、「ノーティー」っていうのがゼロっていう意味らしいんです。僕らが『mono』『omni』『ripple』を出したときに、それぞれ『モノイズムツアー』『オムニイズムツアー』『リップルイズムツアー』と、「主義」という言葉を付けてツアーを組んだので、『00-ism』っていうのはこの企画が立ちあがったときから自分の中でタイトルとしてあったんです。これをどう読ませるかというときに、ゼロ年代が「ノーティーズ」なんだったら「ノーティーイズム」にしようかなと思いました。造語ですね。

ーーフィジカルでまとまってリリースされる意味は、この時代にとても大きいと思います。

山田:ありえないですよね、びっくりしました。なんでそんなことしてくれるんだろうと思いました、何か他にもやらされることがあるんじゃないかなって思ったりして(笑)。でも、それはスタッフの熱意のおかげです。『mono』は全然手に入らなくて、「ヤフオク!」ですごい値段になっていたし。僕がソロでやっていて新しいお客さんが来て、「ちょっと昔に立ち返ってみようかな」っていうときに聴けないものがある状態が嫌だなあと思ってたんですよ。それでサブスクにあるなら高い値段のCDを買わなくていいなと思ったんですけど、『mono』がまたCDになるのは嬉しいし、自分たちの中でもこの3枚は3部作という意味付けがあったので、これをまとめられるっていうのは本当に嬉しいですね。『mono』と『omni』は対になってると思って自分は作ってたんですけど、それでも物足りなくて『ripple』を作ったところもあったので、そういう意味では3部作です。

ーー2002年の『mono』は、山田稔明さんのソングライティングの個性はそのままに、現在のソロよりもR.E.M.的なロックサウンドですね。ただ、強い寂寥感に包まれています。

山田:メジャーの<BMG>で華々しくやらせてもらって、最後のシングルも手応えはあったにせよ、結局そのレーベルでのラストシングルになったときの無力感が自分の中にあって。特に最後のほうのシングルは、自分のためでもあったし、頑張ってくれてるスタッフのためでもあったし、何か負うものが自分の中にあって。バンドも僕が作ったがゆえだという責任感みたいなものをすごく背負いこんでいたんです。そういうところからレールがなくなったときに、自分のエゴやパーソナリティを出したものを作りたいなと思ったんですよね。タイミング的にはアメリカで同時多発テロがあって、ちょっとしたぼんやりした鬱というか、「世界がなんだかすごいことになってる」みたいな感覚が2001年にあって、2002年からこのアルバムを作りはじめたときにもそういう感覚がありましたね。

ーー時代の空気がパーソナルな音楽として反映されているんですね。

山田:そうですね、やっぱりそれまでの暮らしが変わる感じとかも。それまでは事務所もあってレーベルもあったので音楽だけをやるって感覚だったのが、収入がなくなるからバイトを始めたりとか。

ーーバイトをしていた時期があったんですか?

山田:セブンイレブンで深夜に働いてました。夜10時から朝7時までとか。それを週に3日ぐらいやってると、やっぱりバイトがない日は休みみたいな感覚になるんですよ。で、休みの日に音楽をやって「わー、楽しい!」みたいな。自分はミュージシャンとして音楽で食べているって感覚がどんどん薄れていって、これはまずいなと思ってたら体を壊しましたね。

ーー入院したのはいつ頃でしたっけ?

山田:2004年ですね。

ーー『mono』では、「言葉の海に声を沈めて」でブラスサウンドが鳴る点や、語りがボーカルに寄り添う点が、今聴いてもとても新鮮です。

山田:あのブラスは本物を吹いてもらってます。『mono』を作ってるときのリファレンスディスクはPink Floydでしたね。それこそ『原子心母』や『狂気』とか。たぶんどうかしてたと思うんですけど(笑)。

――メンバーのみなさんはそれを渡されて何と言っていたんですか?

山田:まっとうなポップスをやってる人がいないバンドなので、面白がってくれてたような気はしますけどね。それ以前に、この『mono』に関しては本当に僕が傍若無人で、メンバーの意向を受け入れられない時期だったので、本当にピリピリしたスタジオでした。僕がいろいろイライラしてたんだと思うんですよね、「なんかうまくいかねーな」とか。自分が作ったデモとできあがったもののイメージの乖離も、もっとちゃんとメンバーと話をすれば解決したかもしれないのに、密に話すことを自分が避けてた。やっぱり学生のときからやってるバンドなので、家族みたいなものになるんですよね。風通しは悪かったと思うんですよ。2000年代っていうのはずっとそういう時期で、だからよく誰も辞めないで続いたなって今になって思うぐらいです。

ーー「笑う人」のようなラップは、ソロにはないアプローチですね。

山田:自分がミュージシャンである以前にリスナーなので、ラップをフィーチャーしたロックを90年代にいろいろ聴いてて取り入れてみました。「売れるものを作ってください」とレーベルに言われることからも解き放たれたので、好き勝手にやりましたね。今聴いても、よくこんな自由にいろいろやらせてもらってるなあ。

 「『omni』でもう一度ポップスをやり直した」

ーー2003年の『omni』は<VAP>からのリリースです。生のストリングスも響きますね。「愛すべき日々」のスウィング感は前作になかったもので、変化が早いですよね。全体として楽曲も開放的になり、サウンドもダイナミックです。前作とここまで大きく変化したのはなぜでしょうか?

山田:1年しか経ってないんだなって自分でも思いますね。ディレクターの穂山さんは、『mono』のパート2を聴きたかったはずなんですよ。でも、パーソナルで、ちょっとうつむきがちな青年の歌っていうイメージが『mono』にあるとしたら、僕は同じ物を2枚作るのは嫌だなって思って、『mono』のときに一回手放したポップスをもう一回やり直したいと思ったのが『omni』です。<VAP>には大きいスタジオがあってそこを際限なく使わせてもらうことができたので、これはダイナミズムのあるポップスを作ろうと思いましたね。

ーー「それを運命と受け止められるかな」のような7分越えの大作もありますね。

山田:無駄に長い(笑)。意地を張ってるなと思いますね。最近聴いてて「ここで終わればいいのに」って思うポイントがすごくありますね。なんだろうな、あれ(笑)。

ーー「それを運命と受け止められるかな」に限らずですか?

山田:全部ですね。「長いよ!」って思って(笑)。

――この後の『ripple』にはもっと長い曲が入りますからね。

山田:たぶんどうかしてた、ノイローゼだとすると一番やばいときかもしれないです。

ーー「それを運命と受け止められるかな」から「千年の響き」「happy ending of the day」への終盤も美しいも流れですよね。

山田:ソングライティングは『mono』に比べるとすごく考えられてるなと客観的に分析できるぐらいに時間が経ちました。ただ、やっぱりもう一回メジャーレーベルでやるっていう自分の中の気負いが『mono』と確実に違ったなと思うんですよね。僕らが<BMG>時代に『cobblestone』(2000年)というアルバムを杉真理さんや斎藤誠さんと作ったときに、自分の中の音楽的なクオリティが上がった感覚があったんですけど、『mono』と『omni』の間にも自分の成長が確実にあったと思うんですよね。

ーーわずか1年の間に。

山田:その1年の何が違うかというと、それまでよりもたくさんライブをやったことですね。そのライブの中で穂山さんとも出会うことになるんです。僕らはライブで実力をぐいぐい付けてデビューしたバンドではないので、もっとうまくなりたいなって思っていた時期にあたるのかな。『omni』の頃はライブの会場もアストロホールとか、けっこう広いところで頑張っていたので、そういった変化が反映されてもいますね。

ーー2005年の『ripple』も<VAP>からのリリースです。メロウな「東京午前三時」で始まるこのアルバムのメランコリックな雰囲気は当時とても印象的でした。「ドライブ」の渋くて乾いたバンドサウンド、ジャジーな「bluebird」、10分を超える「夜の科学」など成熟感もあります。

山田:『ripple』は今でも聴くと自分の中で盛りあがるし、かっこいいアルバムを作ったなって思うんですよ。作った直後からずっとその印象は変わってなくて、だから「バンドでこれ以上のものを作るのってどうやるんだろう?」って思ったんです。もう出しきったんじゃないかな、っていうタイミングだったんですよね。結果的にその後にバンドは休むことになるんです。この『ripple』は1年ちょっと宣伝とライブを続けたので、僕の中ではロングセラーだと思ってるんです。

 2曲目の「ドライブ」から8分あるし、「夜の科学」は10分以上あるし、わかりにくいはずのアルバムがそれだけたくさんの人に聴かれたっていうのは自分の中でも自信になったし、「手と手、影と影」って曲がプロフィールを書くときの代表曲になったのは本当に良かったと思います。代表曲って、えてして自分が好きじゃない一番売れた曲とかが載るはずなのに。「手と手、影と影」は今でもライブで久しぶりに演奏すると、「あ、この曲知ってました」って言われたりするんです。「最新作が一番いいバンドだな、GOMES THE HITMANは」って自分がここ10年ずっと思ってたし、やりきったなっていう感覚が当時もあったし、それがあったからソロでものづくりをするようになったというのもありました。

ーー「手と手、影と影」はJACCSカードのCMソング、「明日は今日と同じ未来」はアニメ『お伽草子』の主題歌でしたね。

山田:主題歌だったんですけど、主題歌としてシングルで出したバージョンとまったく違うアレンジで演奏してて、『ripple』では全部アコースティック楽器でやってます。なんでそんなことしたんだろうって今でも思います(笑)。アルバムの流れに入れたときに、シングルのバージョンだと違ったんでしょうね。最近GOMES THE HITMANでライブをやるときは、シングルバージョンでやるほうが楽しいです。

ー一般的に見たら、GOMES THE HITMANの知名度が上がったところでバンドが止まるわけですよね。

山田:ここから先の展開について明確なイメージがなくなったっていうのが正直なところでした。バンドで動く大変さにも疲れちゃったのかなって気はするんですよね。

ーーGOMES THE HITMANのアルバムの作り方って、山田稔明さんがプロデューサーの立ち位置のワンマンバンド的なところもあるんですか?

山田 そうですね。特にこの3枚に関しては本当に「俺、感じ悪かっただろうな」と思うんですよ。今回久しぶりに当時ひとりで作ったデモを大量に聴いたら、このデモを「はい、これ新曲です」って渡されたメンバーの気持ちってどうだったんだろうなってすごく思うんですよね。僕が全部楽器を弾いてるし、キーボードのフレーズも入ってるし、ストリングスも入ってるし、ドラムもサンプリングしたのが入ってるし、結局デモのバージョンとアルバムのバージョンはほぼ変わらない。ただメンバーがそれぞれ塗り替えてるだけっていう感じがして。

 しっかり録音してるからアルバムのほうが当然いいんですけど、もっとみんなでディスカッションしてアルバムを作ってたらこういう風にはならなかっただろうなと思うんです。戻れない過去ですけど、あのときにみんなでわいわい「これはこうしようよ」ってやってたとしたらもっと良くなってたのかなとか、そうじゃなくて自分が耐えられないで辞めてたのかなとか、いろんな「たられば」を想像してしまいますね。しんどい時代だったなっていうことしか思い出せないです、2000年代っていうのは。

ーー2000年代のアルバムタイトルがシンプルなのはなぜでしょうか?

山田:『mono』を作ったときに『omni』ってタイトルはできてたんですよね。次は対になるコンセプトアルバムを作ろうって。『mono』は「単一」、『omni』は「たくさんの」っていう意味で。その2枚を作って、もう1枚『ripple』を作るときに、キーボードの堀越に「水滴をポンと落とすみたいな感じで弾いて」とか、そういう表現が多かったんですよ。あと僕がGrateful Deadの「Ripple」って曲が大好きで、それもあってタイトルを決めたんです。

ーーPink FloydやGrateful Deadの名前が出てきましたけど、2000年代に一番山田稔明さんが聴いていた音楽は何でしたか?

山田:Wilcoですね。『omni』と『ripple』はWilcoの影響がすごく大きいです。R.E.M.よりもWilcoのサウンドを志向していて、もしかしたらWilcoをプロデュースしていたジム・オルークってことになるのかもしれないですけど。

ーーそして、その後に須藤俊明さんがジム・オルークのバンドに入るわけですね。たしかに当時『ripple』を聴きながらWilcoの影響は感じました。

山田:アメリカのアコースティック楽器を使うオルタナティブなバンドにすごく影響を受けていましたね。

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