矢野顕子の弾き語りは自由で圧倒的だった 『さとがえる/ ひきがたるツアー』東京公演レポ
矢野顕子のライブを見ることは、ひとつの「体験」だ。それは、音楽について受けた初等教育の影響が濃い人にとってほど、強烈な体験になりうるだろう。これほど音楽とは自由でいいのか、と。
2017年12月10日、NHKホールで『さとがえる/ ひきがたるツアー “ひとりでみんなに届けます”』の東京公演が開催された。1990年にアメリカへ移住した矢野顕子が、毎年日本へ里帰りして開催しているのが年末恒例の「さとがえるコンサート」シリーズ。ここ数年は、細野晴臣、林立夫、鈴木茂というTIN PANのメンバーを迎えて開催されてきたが、今年は弾き語りアルバム『Soft Landing』のリリースもあり、矢野顕子とピアノのみによって開催された。矢野顕子のもともとのスタイルに戻ったと言ってもいい。
開演時間を過ぎ、会場が暗転するとステージがライトアップされた。照らしだされたのは、世界三大ピアノメーカーに数えられるドイツのベヒシュタインのグランドピアノだ。
矢野顕子が登場し、ピアノの前に座って弾きはじめる。その瞬間、矢野顕子のピアノの音を、PAを通さずに直接聴いているかのような感覚にすらなった。
1曲目はYUKIの「汽車に乗って」。矢野顕子の手にかかると、この楽曲は古い叙事詩のように感じられ、軽く時空が歪む。換骨奪胎して楽曲を崩しているというより、新たな筋肉に付け替えているかのように感じられた。
「Full Moon Tomorrow」を歌ってからは、随時矢野顕子がピアノを弾きながらMCをする進行に。
この日は、糸井重里作詞、矢野顕子作曲の楽曲が多く歌われ、矢野顕子はふたりのコンビを「レノン=マッカートニー的な『イトイヤノ』」と紹介して笑った。彼女は言う。「作詞作曲でわけていますが、歌があると渾然一体となって皆さんも楽しめます」と。
そして歌われたイトイヤノ作品「野球が好きだ」は、リズムが強調され、NHKホールという空間に向けているかのようなダイナミックさだった。
今回ベヒシュタインのピアノを使ったのは、『Soft Landing』の監修を務めたエンジニアの吉野金次のアイデアだったという。矢野顕子がよく弾くコードがきれいに響くそうで、ステージで実演してみせた。そして、ハミングから始まったのが「六本木で会いましょう」。実に雄弁な歌とピアノだった。
続くイトイヤノ作品の「ふりむけばカエル」について矢野顕子はこう語った。
「つい昨日歌おうと思いついて、郡山(12月9日の郡山市民文化センター中ホール)で久しぶりに歌いました。なぜそうなったかというと、ついこの間夜中にテレビから〈メトロポリタンミュージアム〉と聴こえてきて『この曲いいよな、懐かしいな、久しぶりに歌ってみようかな』……よく考えたら私の曲じゃなかった」と笑った。大貫妙子の「メトロポリタン美術館」を自分の楽曲だと勘違いしたために、同じく『NHKみんなのうた』で使われた「ふりむけばカエル」を前日から演奏したそうだ。
「ふりむけばカエル」が収録されたアルバム『GRANOLA』がリリースされたのは1987年。30年を経ても「ふりむけばカエル」の新鮮さが失われないことに驚嘆させられた。
かつてライブ中に体調を崩したとき、一緒に出演していた清水ミチコにいきなりバトンを渡したところ、見事にライブをこなしてくれたというエピソードを披露して、矢野顕子は「持つべきものは清水ミチコ」と締めくくった。
そして歌われたのは、フジファブリックの「Bye Bye」。繊細さ、真摯さ、ドラマティックさ、躍動感。そうしたものが一曲の中に充満し、交錯していた。一本の映画を見たような軽い疲れを感じたほどだ。心地良い疲れとして。
「昨日にドドンパ」は石川さゆりへの提供曲。まずドドンパのリズムの手拍子をファンに練習させてから弾き語りが始まったが、矢野顕子がピアノを弾きだすと、手拍子のリズムが崩れかかった。「よく聴いて!」と矢野顕子に言われつつ、ファンがNHKホールにドドンパを響かせたのが「昨日にドドンパ」だった。最後に矢野顕子が歌いあげた瞬間は、まるでゴスペルでも聴いているかのようだった。