2025年春アニメ最大の話題作『前橋ウィッチーズ』 なぜ“魔女見習い”をやめようとしたのか

前橋ウィッチーズはなぜ魔女をやめたのか?

「魔法」は人を救わない——魔(法少)女たちの「日常系」

 TVアニメ『前橋ウィッチーズ』は、魔女になることを目指す(目指していた)少女たちの物語だ。舞台が群馬県前橋市であることから名付けられた「前橋ウィッチーズ」という彼女らのグループ名と、作中に頻出する歌唱シーンはさながら「ご当地アイドル」を題材としているようであり、一見すると魔法少女ものやアイドルものの様式美を素朴に引き継いだ作品であるように感じられる。

 しかし終盤において主人公・ユイナたちは自身の「魔女見習い」という立場を手放そうとさえする。魔女であることから自発的に降りようとすること。その選択肢があったことこそが、本作がある種の魔法少女観を更新しようと試みている挑戦的作品であったことの証左であるように映る(彼女たちの歌って踊る姿や“含みのあるマスコットキャラ”ケロッペなどを鑑みて、魔法少女と同列に語ってもよいだろう)。「魔女(見習い)である」ことは、彼女たちにとって重大な事柄とはなりえないのだ。

 それは同時に、『前橋ウィッチーズ』という作品そのものの根幹にも関わる。本作がルッキズムやヤングケアラーといった、社会において問題となりつつある様々なことに目を向けている「社会派」アニメであったことはもはや言うまでもない。ただし重要なのは、そうした側面をフィクショナルな要素=「魔法」の断念を通して際立たせたところになかっただろうか。

『前橋ウィッチーズ』における「魔法」の位置付け

スゴすぎ前橋ウィッチーズ!/ 前橋ウィッチーズ | TVアニメ『前橋ウィッチーズ』ノンクレジットオープニング映像

 そもそも本作における「魔法」の位置付けがやや特殊なものであることを思い出そう。『前橋ウィッチーズ』において、「魔法」は常にドライなものだった。それは奇跡と呼べるような代物ではなく、あくまで「マポ」を消費するという極めて貨幣経済的なシステムによってのみ実現する。それによって満たされるのは表面的な願望で、日頃の小さな不満が解消されるにすぎない。当人の深層で燻る「曖昧な満たされなさ」に対しては、いっときの安らぎを与える程度のものでしかないのだ。例えば、ユイナはそもそも「最高に刺激的な仲間とエモエモ最強MAXな思い出」をつくりそれをフォトボードの真ん中に貼るという願望——それはきわめて表面的なものだ——を満たすために魔女見習いになったのであり、初めから本人の抱える曖昧な満たされなさ(第10話でさらっと明かされる、彼女の対人関係についての葛藤)を解消する手段にはなりえなかった。

 つまり本作で描かれていたのは、魔女見習いたちの願いが決して「魔法」という装置によっては満たされないということだ。魔女になることは、決して本質的な願いを叶えはしない。

 彼女たちが最終的に頼ったものは、魔法とはほど遠い、より卑近な存在だった。「福祉」や「仲間」といった手が届く場所にあるものこそが、彼女たちが問題に直面するたびに何度も描かれてきた。再度ユイナに限定すれば、彼女はむしろ友人たちと紡がれる「日常」のなか(=「おまんじゅうの穴」)に可能性を見出した。最終話でユイナが語ったように、彼女が魔女見習いになる際に願った「エモエモMAXな写真」は撮ろうと思って撮れるものではなく、後になってふと思い返したときにそうであるとわかるものだ。彼女のフォトボードに円を描くように前橋ウィッチーズの写真が飾ってあることは、それをありありとしめしているだろう。ユイナ、そして他の魔女見習いにとって本当に必要だったことは、「魔女」になって願いを叶えることではなく、身近なところにある救いの手に気がつくことであり、目の前にある日常を少しずつ変えてゆく試み、すなわち超越的な奇跡ではなく「地に足のついた」行動だった。

 そして「魔法」が願望を叶えないことは、魔女見習いである彼女たち以外にとっても同様だ。悩みを持って彼女たちの前に姿を現した人々に、魔法は決して本質的な解決を与えない。例えば進路に悩む少女・栄子は前橋ウィッチーズの歌唱=魔法によって救われたように思われたにもかかわらず、彼女は第9話終盤において前橋ウィッチーズの拠点を乗っ取ることを試みた。栄子の立場(高校3年生の春~夏)を考えれば進路の変更には大きな労苦がかかるものであり、その意味で前橋ウィッチーズの行動は無責任なものだった。それが恒久的な解決ではなかったことは、彼女の「こんなことになるなら最初から諦めたほうがずっとましだった」という叫びからも明らかだろう。

 この問題を解決したのもまた、「対話」という地に足のついた方法だった。すなわちここでも、相談者たちの問題を解決するときに重要になるのは、魔法によって得られるものとは異なる何かだ。それはつまり、魔法が決して本質的な解決にはなり得ないことを示している。魔法に願いを叶える能力はない。奇跡は人を救わない。だからこそ彼女たちは、「魔女見習い」という立場を手放すことをも簡単に選択する。

 再三言うように、本作において魔法は万能ではない。そのため、「魔女(見習い)」もまた人を救わない。彼女たちが行なっているのは常に表層的な願望の充足であり、それは決して飛躍的な方法による救済にはなりえない。

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