『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』炭治郎の“自分語り”は何を問いかけていたのか?

リアルサウンド映画部の編集スタッフが週替りでお届けする「週末映画館でこれ観よう!」。毎週末にオススメ映画・特集上映をご紹介。今週は、お気に入りの作品は20回はざらに鑑賞する徳田が『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』リバイバル上映をプッシュします。
『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』
『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』(以下、『無限列車編』)といえば、コロナ禍に最高の売上を記録した映画として記憶されている。作品の中身についてはすでに多くの優れた論考が出ている(明日からも出る)ので、ここではいま「リバイバル」されることの体験性について考えてみようと思う。
公開から5年が経ったいまこの作品を観返してみると、まさにソーシャルディスタンスに最大限気を遣われていた「列車」が舞台だったこと(いまや通勤ラッシュもとっくに再日常化していること)に改めて気付かされる。
同時に主要キャスト陣の声のイメージがほとんど『鬼滅の刃』によって形作られていることを、強く思い知らされる。

禰󠄀豆子は基本「うー」とか「むー」とかしかしゃべらないキャラだが、それが確実に鬼頭明里の声だと判断できる自分に気づいたのは、数年ぶりにテレビアニメ版の『無限列車編』を観返してのことだった。『アオのハコ』の蝶野雛でもなんでもいいが、この5年間あらゆるキャラを通して彼女の声を浴び続けていたアニメファンは少なくない。
花江夏樹もそうだ。もはや炭治郎のイメージなしでは彼の声を想像できなくなっている。実は『オッドタクシー』や『凪のあすから』などでみられるように、花江の声色の幅は「広い」ほうだが、本人のキャラクターもあってか「花江夏樹といえば炭治郎」といったパブリックイメージはかなり強固なものになっているようだ。
このような再帰的な見方をする主体(視聴者)は、5年の蓄積を経て改めて現れるものだろう。そしてこうした視聴者が「感情移入」できるとすれば、それは本編の炭治郎よりむしろ「大正コソコソ噂話」のほうの炭治郎ではないか。
「大正コソコソ噂話」とは、TVアニメ版の次回予告時に流れるコメディパートである。炭治郎たちが本編を振り返ったり、関連エピソードのギャグに興じたりする、キャラクター自身によるオーディオコメンタリー的なパートだ。(既知の)物語の外に立つ視点人物という意味で、炭治郎と視聴者の距離は縮まっているだろう。
ここでは炭治郎が次回エピソードのサブタイトルを読み上げるのが恒例になっている。恐るべきことに、テレビアニメ版第6話「猗窩座」のタイトルコールも炭治郎(花江夏樹)が読み上げる。煉獄さんを殺害した張本人(鬼)の名を、思いっきりカメラ目線で朗らかに告げる。「言うはずがないだろう そんなことを 俺たちの炭治郎が!!」と思わなくもないが、いずれにしろこの炭治郎は、『鬼滅の刃』の物語に対してメタ視点に立ち、自己言及的な振る舞いをしている。
そのような「茶化し」が劇場版の感動を損ねているという声もあるだろう。

ともあれ思い返してみれば、そもそも炭治郎は本編でも自己言及的な人物だった。ことあるごとに彼が「俺は長男だから云々!」などと叫んでいるのは知っての通りである。「言葉で説明しすぎ」なことを否定的に捉える視聴者が一部に存在していたが、いずれにしろキャラが自身の行動原理・状況を頻繁に口にしているのは『鬼滅の刃』の大きな特徴だ。
こうした自己言及性は『無限列車編』で効果的に機能しているだろう。






















