『海に眠るダイヤモンド』はなぜこんなにも“美しい”のか 視聴者の心に“花”を植える物語
『海に眠るダイヤモンド』(TBS系)の第5話で、ついにいづみ(宮本信子)の正体が朝子(杉咲花)だと明かされた。そのうえでこれまでの全話を観返してみると、あらためて本作に張りめぐらされた周到な仕掛けに驚かされる。
いづみが朝子であることのヒントは、はじめから随所にちりばめられていた。玲央(神木隆之介)が働くホストクラブ「Heaven's Jail」でいづみが発した「私、キラキラしたの大好き」という言葉は、第3話で少女時代の朝子(小野井奈々)がキラキラ光るガラス瓶を拾おうとして海に落ちたエピソードにつながる。いづみが玲央を伴って長崎で食べたちゃんぽんの丼に、朝子の両親が営んでいた「銀座食堂」の丼のフラッシュが重なる。ちゃんぽんの味を「普通」と吐き捨てたのは、「昔食べ飽きた味」という意味かもしれないし、「あの頃の『銀座食堂』の味を再現できていない」という意味にもとれる。
しかしながら、第5話でいづみが朝子だとわかるまで、我々視聴者は作り手の丹念なミスリードにまんまと踊らされてきた。いづみの正体が百合子(土屋太鳳)ともとれるし、リナ(池田エライザ)ともとれるように、本作は作られていた。
第1話冒頭、「戻れないあの島」「愛しい人の思い出はすべて、あの島へ置いてきた」といういづみのナレーションが流れるなか、1965年にリナが赤ん坊を連れて端島を離れるシーン。その直後に、2018年のいづみが映し出される。これは誰が観ても「いづみ=リナ」だと思ってしまう。
いづみが長崎で、カトリック浦上教会(旧称:浦上天主堂)について玲央に説明しながら神の教えを説くシーンは、百合子との関連性を思わせる。さらに第2話で、いづみが玲央に水のありがたみを教えたあとグラスの水を飲む姿に、百合子が柄杓で汲んだ水を飲む姿を重ねられてしまっては、「いづみ=百合子」だと思わざるを得ない。
こうした巧みなミスリードは、いづみの正体は誰なのかを探る前半のミステリー要素を大いに増幅させている。しかしここまで物語を追ってきて、このミスリードは単なるギミックのみならず、いづみが元島民の「語り部」であり、彼女の存在が「あの頃、端島に生きた人々」全体を象徴しているのではないかと思えてくる。つまり、いづみは百合子でもあったし、リナでもあったのではないか。
本作が放送されている2024年は、かつて日本屈指の炭鉱地であった端島が1974年に閉山してから50年という年。この年に、TBSの一大コンテンツである「日曜劇場」という枠で、作り手たちは何を描き、何を訴えようとしているのか。
『海に眠るダイヤモンド』というタイトルからしてだが、このドラマはシャレード(間接表現)が実に巧みだ。炭鉱夫たちの過酷な労働環境や、島民の暮らしぶりなどは、精緻な映像に乗せて鉄平(神木隆之介)のナレーションで具体的に教えてくれるのだが、「いちばん言いたいこと」はあまり直截的に言葉にしない。人々の行動、しぐさ、表情、そして「アイテム」が雄弁に語ることが多い。それが本作の美しさだともいえる。
たとえば第4話では、きょうだい3人を戦争で喪った荒木家の追憶と、被爆者である百合子が背負ったものの大きさを通じて強い反戦メッセージが感じられた。ラストシーンでは、鉄平によるナレーションではっきりと「私たちは祈る。今度こそ間違えないように」と言葉にしている。しかしその「言葉」に加えて、より強く訴えかけてきたのが、精霊船であり、祈りを込めた花火であり、3人の子どもたちを弔う一平(國村隼)が精霊船に乗せた一箱のキャラメルであった。
ちなみに先ほどから「鉄平によるナレーション」と述べているが、これにもあるシャレードが絡んでいる。本作のなかで唯一直截的・説明的であるのがナレーションだが、これも鉄平が書き残し、第4話でいづみから玲央に託された「端島ノート」の文面であることがわかる。そしてこのナレーションは単なる「鉄平の声」ではなく、現代を生きる玲央が自らのルーツを探るべく鉄平のノートを読み解いていくなかでの、「玲央の脳内で再生される鉄平の声」ではないか。こうした一捻りある舞台装置が、絶妙に「説明臭さ」を回避している。
端島の若者たちの「6角関係」を象徴する、6人しか集まらなかったスクエアダンス(このダンスの「相手が入れ替わる」という特性も何かを象徴していそうだ)。百合子にとっての「呪い」であり、翻ってアイデンティティの依拠でもある十字架のネックレス。朝子への想いを打ち明けられない賢将(清水尋也)が長崎に出るたびに買ってきては連なっていくガラス細工。「一島一家」という合言葉とは裏腹に存在する、炭鉱員の家と職員の家の格差を描くシークエンスで、幼き日の鉄平と賢将が一緒に食べたカレーライス。こうした、人物の心情と来し方を言葉以上に物語る「アイテム」が、この作品に厚みを与えている。