【追悼】西田敏行さんは“人間の複雑さ”を表現し続けた あまりに大きな存在感の喪失
俳優の西田敏行さんが亡くなった。
すでに数多くの俳優、仕事仲間から彼の旅立ちを悼むメッセージが出され、その活躍を見守ってきた観客や視聴者からも西田さんの功績を称える言葉が数多く紡がれている。
SNSのタイムラインに表示されるものだけでも、西田さんの俳優人生のスタートとなった舞台関係から昭和の大ヒットドラマ、歌手としての活動、さまざまな表情を魅せた映画、数多く出演した大河ドラマなど、その活躍の切り取り方や思い出は観る者によってさまざまで、あらためて日本のエンターテインメント業界における西田敏行さんの存在の大きさを噛み締めている次第だ。
福島で生まれ育ち、高校時代に映画館に通い詰めた西田さんは、東京・明治大学に進学するものの中退。大学と並行して通っていた演技関係の養成所の仲間たちと小さな劇団を結成するが上手くいかず、1968年に新劇の劇団・青年座の養成所に再入所して1970年には座員となる。翌年の1971年には劇団公演(矢代静一・作『写楽考』)の主演に抜擢されたことからも、若い時分から放っていた輝きの凄さがうかがえる。
また、1970年代中盤からはテレビドラマへの出演も増えた。堺正章、岸部シロー、夏目雅子らと共演した『西遊記』(日本テレビ系/1978年)の猪八戒役や、早逝した妻の連れ子たちを必死に育てるカメラマン役で一世を風靡した『池中玄太80キロ』(日本テレビ系/1980年)などは今でも多くの人の記憶に残っているだろう。ちなみに池中玄太・第2シリーズの主題歌「もしもピアノが弾けたなら」は自身が歌い、『NHK紅白歌合戦』への出場も果たしている。
1988年からは映画『釣りバカ日誌』シリーズにて主役の浜崎伝助(通称:ハマちゃん)を通算20作以上に渡って演じた。三國連太郎演じる建設会社社長・スーさんとの台本なのかアドリブなのかわからない掛け合いは他の誰にも真似できない味だったと思う。
先に西田さんの俳優キャリアのスタートは舞台だと書いた。が、じつは思いのほか舞台出演作は少ない。そんななか、彼が1994年から2001年まで演じたのがミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』主役のテヴィエである。牛乳販売と配達とで生計を立て、5人の娘を育てながら妻とロシアの寒村で暮らすこのユダヤ人の父親役を初代の森繁久彌、2代目の上条恒彦から受け継ぎ、現在の市村正親へとバトンを繋いだ。
さて、西田敏行さんを語らせて貰う上ではずせないのがNHK大河ドラマである。初出演は1972年の『新・平家物語』で、そこから2022年の『鎌倉殿の13人』までなんと14作に出演し、そのうち『山河燃ゆ』(1984年)『翔ぶが如く』(1990年)『八代将軍吉宗』(1995年)『葵 徳川三代』(2000年)の4作で主演を務めている。現在放送中の『光る君へ』で大河ドラマは63作目となるが、この長い歴史の中で4作の主演を担った俳優は他にいない。
と、西田さんの凄まじくも輝かしいキャリアのほんの一部分だけをピックアップしたが、ここからは2000年代以降、時代をけん引するふたりの脚本家との仕事にフォーカスを絞ってみたい。
まずひとりめは三谷幸喜。西田さんは三谷氏が脚本と監督を担った映画5作=『THE 有頂天ホテル』(2006年)『ザ・マジックアワー』(2008年)『ステキな金縛り』(2011年)『清須会議』(2013)『ギャラクシー街道』(2015)に出演。深津絵里とのダブル主演作『ステキな金縛り』(と『清須会議』)の更科六兵衛役も素晴らしかったが、特に推したいのが三谷映画初出演作『THE 有頂天ホテル』で演じた大物演歌歌手・徳川膳武だ。
香取慎吾演じる歌を愛するベルボーイ・只野憲二の前ではさんざん弱音を吐き死にたいと泣き叫ぶものの、付き人・尾藤(梶原善)に一喝された途端、スっと表情を変えて他者を寄せ付けないオーラを放つ。さらに歌で身を立てたいと密かに願う只野に対し、徳川が「趣味でおやんなさいよ」とサラっと言い放つ姿からは光の中に立つ表現者が宿す業や闇に加え、何ともいえない外連味も伝わってきた。